病気になってからというもの、自分は「幸運」なのか、それとも「不運」なのか、ということについて、たまに考える。こんなことは今まであまり考えたことはなかったのだけれど。要はどうしようもないものを取り扱わなければいけない立ち位置にいるので、嫌が応にも運に類するようなものを秤にかけてしまうのである。これって、おそらく病気になったから気づいたことだけど、別に病気がテーマでなくとも色んなことで起こり得る。おれもそうなんだけど、たぶん皆、両方を抱え込んでいるんだろうね。一方、自分が当事者になって嫌なのは、擦り合わせを行わずにはいられないということで。闘病日記やら、同じ病気の人が発信している情報のブログ等を参考にしつつ、他者との比較から基準を作ろうとする。そして、こっちは幸運、こっちは不運。こういうような線引きをいつの間にかしようとしているから、嫌になる。本当に弱くて勝手だよなぁ、と。明日にでも価値が転倒しそうなものを、厳かに天秤に乗せてバランス取ろうとしてみたところで、どうしようもないってのに、やってしまう。ただ、結構時間をかけてじっくりと考えてみても、自分が置かれている状況はどうやら幸運っぽいと思っている。まあ、だとしても、良くない方向で起こってほしくなかったことも起こってしまっているので、少し不運でもある。「幸運少し不運」って、混ぜちゃったら結局のところ秤なんていらないんだよな。
今年もあっという間に残り2か月。
この時期になると、人々は口を揃えて「最近、一年過ぎ去るのが速くてねぇ」なんてことを言い始めたりする。当然のことながら時間が過ぎていく速さが変わることはないわけで。主観的な意味での時間、ということを問うのであれば、それは当たり前のように人それぞれだと思うのだけれど、「これはきっと大人になったからだ」とか「子どもと大人の時間の流れは違うんだ」なんて着地点に固執するのは、そういう言い訳を作ろうとしているからのような気もする。
時間なるものを切り出してどうこうできるわけはない。だから、人が何かを思い出しながら「時間」ということを語ろうとするときには、過去の時間、もっと言うなら小さな記憶の断片とか、思い出などをふわっとまとめたものを取り出しがちなのだけれど、(自分も含めて)皆、あまり自分の記憶力や感性の低下の可能性みたいな部分には言及しない。そうしたくないのかもしれない。
一時期、何となくそんな嫌な気持ちになり、時間論に関する本を読み漁ってみたことがある。物理学に関する本はよく理解できず、哲学に関する本は結論が得られるようなものではなく、結果は保留中、なのであるが。ただ、自分の経験論から言って、これはもちろん自分も含めてなのだけれど、やることなすことファストフード的な想像力で補完しながら進んできたツケが回ってきているような感もある。効率化などの建前のもとに。だって、大人のときであろうと、子どものときであろうと、忘れられないような一瞬や、一日や、一年は結局忘れらないし、信じられないくらい長い時間だから。
元々、短かった時間なのか、それとも短く「なってしまった」時間なのかと考えると、可能性として高いのは後者で、であるなら、あとから思い返したときに抜け落ちないようにしようと。忘れそうになったときは、問いかけるわけである。極端な話だけど、最近、蟻が歩く様子を見ている?道端の葉っぱの葉脈を見つめたことは?身近なことでも、案外、想像を巡らせられなくなっていることはある。欠けてしまったら、それまで。にならないように。触れて、見る。すると、時間は続くのかも(しれない)などと。
この時期になると、人々は口を揃えて「最近、一年過ぎ去るのが速くてねぇ」なんてことを言い始めたりする。当然のことながら時間が過ぎていく速さが変わることはないわけで。主観的な意味での時間、ということを問うのであれば、それは当たり前のように人それぞれだと思うのだけれど、「これはきっと大人になったからだ」とか「子どもと大人の時間の流れは違うんだ」なんて着地点に固執するのは、そういう言い訳を作ろうとしているからのような気もする。
時間なるものを切り出してどうこうできるわけはない。だから、人が何かを思い出しながら「時間」ということを語ろうとするときには、過去の時間、もっと言うなら小さな記憶の断片とか、思い出などをふわっとまとめたものを取り出しがちなのだけれど、(自分も含めて)皆、あまり自分の記憶力や感性の低下の可能性みたいな部分には言及しない。そうしたくないのかもしれない。
一時期、何となくそんな嫌な気持ちになり、時間論に関する本を読み漁ってみたことがある。物理学に関する本はよく理解できず、哲学に関する本は結論が得られるようなものではなく、結果は保留中、なのであるが。ただ、自分の経験論から言って、これはもちろん自分も含めてなのだけれど、やることなすことファストフード的な想像力で補完しながら進んできたツケが回ってきているような感もある。効率化などの建前のもとに。だって、大人のときであろうと、子どものときであろうと、忘れられないような一瞬や、一日や、一年は結局忘れらないし、信じられないくらい長い時間だから。
元々、短かった時間なのか、それとも短く「なってしまった」時間なのかと考えると、可能性として高いのは後者で、であるなら、あとから思い返したときに抜け落ちないようにしようと。忘れそうになったときは、問いかけるわけである。極端な話だけど、最近、蟻が歩く様子を見ている?道端の葉っぱの葉脈を見つめたことは?身近なことでも、案外、想像を巡らせられなくなっていることはある。欠けてしまったら、それまで。にならないように。触れて、見る。すると、時間は続くのかも(しれない)などと。
10月も終盤戦。世間はハロウィンの装いである。
今でこそここまで盛り上がっているけれど、日本のハロウィンっていつからここまで騒がれるようになったんだっけ。少なくとも、おれが大学生くらいのときにはなかった気がする。正直、ハロウィン自体にはそれほど興味がないのだが、かぼちゃが好きなので、かぼちゃ料理やら、かぼちゃスイーツがたくさん登場するのはうれしい。あと、今年はどうもオバケ系のパンが目立つのは気のせいだろうか。ミイラパンとか、謎の骨パンとか。某パン屋で商品名「おばけパン」なるものを発見したのだが、目と口の部分が繰り抜かれているナンで笑ってしまった。なんという力業。一番の“おばけ”は、ナンがいつの間にかパンに変わっていることだろう。そこまでど直球に行くのであれば、もういっそのこと何も変えずに「おばけナン」って名前で出せばいいじゃんとか思う。と、まあ、この国の時節的な(特に海外輸入の)イベントは、時々、明らかにネジがぶっ飛んだ感じになるし、本来の意味云々などは狂ったようにスルーされることがしばしばだけれど、そういうものとして受け止めるのであれば結構面白い。とはいえ、渋谷や川崎の雰囲気を味わいに行く気力もないので、かぼちゃの煮っ転がしでも作って、Happy Halloweenって小さく呟いて、たぶんそれで終了。
今でこそここまで盛り上がっているけれど、日本のハロウィンっていつからここまで騒がれるようになったんだっけ。少なくとも、おれが大学生くらいのときにはなかった気がする。正直、ハロウィン自体にはそれほど興味がないのだが、かぼちゃが好きなので、かぼちゃ料理やら、かぼちゃスイーツがたくさん登場するのはうれしい。あと、今年はどうもオバケ系のパンが目立つのは気のせいだろうか。ミイラパンとか、謎の骨パンとか。某パン屋で商品名「おばけパン」なるものを発見したのだが、目と口の部分が繰り抜かれているナンで笑ってしまった。なんという力業。一番の“おばけ”は、ナンがいつの間にかパンに変わっていることだろう。そこまでど直球に行くのであれば、もういっそのこと何も変えずに「おばけナン」って名前で出せばいいじゃんとか思う。と、まあ、この国の時節的な(特に海外輸入の)イベントは、時々、明らかにネジがぶっ飛んだ感じになるし、本来の意味云々などは狂ったようにスルーされることがしばしばだけれど、そういうものとして受け止めるのであれば結構面白い。とはいえ、渋谷や川崎の雰囲気を味わいに行く気力もないので、かぼちゃの煮っ転がしでも作って、Happy Halloweenって小さく呟いて、たぶんそれで終了。
先週末は埼玉県内に住む友人と約3年ぶりの再会。
「そろそろ会おう!」と言い続けていたら、あっという間に3年。自分の体調にも波があり、コロナまん延の状況もありで致し方ないとはいえ、まさかこんなに間が空いてしまうとは。専門学校に通ってた頃には、ほぼ毎日、特に話題が思いつかないときですら、エビやらイルカの話やらしていたのに、ねぇ。信じられないことだよ。再会してから開口一番、「You、所作が老けたねぇ」と一言。所作が老けるってなんだ。そんなポイントに注目するのは、長年想い合っている恋人か、犬か、神様くらいだろうと。どうにもこうにも。この3年間で起こった怒涛のような出来事については到底話しきれず(というか、思い出せないことも多く)差し当たって、お互いの生存報告+最新情報アップデートのような時間だった。おれたちは順調に生きていて、そして、真っ当に老けてきている。そろそろ年齢カウントするのやめちゃわないか?的な。時間が空こうと何だろうと、やっぱりこうなるよなぁという会話のテンポと雰囲気は相変わらず心地良い。
ふとしたきっかけで、『八月の夜はバッティングセンターで。』というドラマを観た。
元プロ野球選手がバッティングセンターに訪れる女性たちのバッティングフォームを見ながら悩み事を解決していくという謎のドラマなのだが、独自の野球論に引きずりこんで解決にもっていくところがバカバカしくも面白かった。
このドラマを観ながら思い出したのだけれど、確か大学生くらいの頃、友人らから悩み相談を持ち掛けられていたときに、何かとバッティングセンターに行くことを勧めていた時期があった。「バイトでさ~」「彼女(彼氏)がさ~」みたいな愚痴に近い相談をされたときには、「オッケー、とりあえずバッセン行っとこう!」くらいなノリで。
その当時には、本当に、心の底から、バッティングセンターが最強のストレス解消法だと信じていた。しかし、もうちょっと大人になってから、いざ自分が久々に行ってみて、どんなにボールを打ちまくっても心のモヤモヤはなくならず。体の重さだけが残り。どうやら、バッティングセンターで解決できる悩み事もあれば、そうでもない悩み事もあるようだ、ということを思い知り、同時に自分が安易な発言をしてきたことについて罪悪感に苛まれたのだった。
そういう意味では、バッティングセンターは全ての問題解決の場になれるわけではないが、問題に気づけるきっかけの場にはなりえるのかもしれない。だとすると、その場に相談に乗ってくれる誰かがいてくれるのは、確かに心強く、またストーリーとしても妥当ではある。
奥深さ云々について考える前に、さっさとバットを振れ!という話ではあるが。
元プロ野球選手がバッティングセンターに訪れる女性たちのバッティングフォームを見ながら悩み事を解決していくという謎のドラマなのだが、独自の野球論に引きずりこんで解決にもっていくところがバカバカしくも面白かった。
このドラマを観ながら思い出したのだけれど、確か大学生くらいの頃、友人らから悩み相談を持ち掛けられていたときに、何かとバッティングセンターに行くことを勧めていた時期があった。「バイトでさ~」「彼女(彼氏)がさ~」みたいな愚痴に近い相談をされたときには、「オッケー、とりあえずバッセン行っとこう!」くらいなノリで。
その当時には、本当に、心の底から、バッティングセンターが最強のストレス解消法だと信じていた。しかし、もうちょっと大人になってから、いざ自分が久々に行ってみて、どんなにボールを打ちまくっても心のモヤモヤはなくならず。体の重さだけが残り。どうやら、バッティングセンターで解決できる悩み事もあれば、そうでもない悩み事もあるようだ、ということを思い知り、同時に自分が安易な発言をしてきたことについて罪悪感に苛まれたのだった。
そういう意味では、バッティングセンターは全ての問題解決の場になれるわけではないが、問題に気づけるきっかけの場にはなりえるのかもしれない。だとすると、その場に相談に乗ってくれる誰かがいてくれるのは、確かに心強く、またストーリーとしても妥当ではある。
奥深さ云々について考える前に、さっさとバットを振れ!という話ではあるが。
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