2006年07月

花火祭があるそうで。

近くのスーパーで発見。レアだ。レア物だ。

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しかしスイカに塩を邪道だと思ってる自分としては、
甘いんだから「激甘トマト」とかでいいじゃない、とか
思わなくもない。





話は変わりますが、今日は春日井市のなんやら花火祭があります!!
そんな情報とっくに忘れ去っていたのですが、早朝に留守電が入ってました。


「今日お祭りあるんだけど、一緒に行かない??」
と。






バイト先で遊んでる子供たちから。(悲)
まぁ、そんなことだろうと思ってたけどなっ。


「思ってたけどな!!」(←リダイヤル)


「なんだよー」(←子供)


「なんだよってなんだよー」(←大学生)



もちろん行くさ、行くともさ。
久々にジャガバタを食べたい気分なんですよね。
あるかなジャガバタ。なかったら三日間くらい欝になるかもしれませんが、そのときはどなたか励ましてやってください。


えっと、そんなことなので。
祭りに行く人は子連れのおれを発見しても無視してください。
肩車とかやってたりキャラとか変わってても気にしないでスルーしてくださいね。


追跡しようとしてきた方は容赦なく撃ちます。射的の銃で。

祖父と自分

「教わる」という機会、その場は、自分が必ずしも意識していないときに突然現れる。僕自身、過去を振り返ってみても、今まで自らが積み重ねてきた知識の数々のいずれもが、ごく自然な、けれど、偶然とも言える恵まれた機会のなかでの出会いが多かったように思われる。今回のエッセイで触れていこうと考えている内容は、そのなかでも特に強く引きつけられた祖父との必然の出会いであり、そして同時に、おそらく僕にとって掛け替えのない教師との偶然の出会いでもあったということを先に示しておくことにする。


  2004年10月30日、子供の頃から常に一緒に暮らしてきた静岡の「おじいちゃん」が肺炎のために亡くなった。当日、僕が名古屋から静岡の病室に駆けつけたとき、祖父はまだ息をしており、既に意識はほとんどなかったけれど、手を握れば“握り返してくる”、目を見つめると“見つめ返してくる”、そんな予感を感じさせるほどに力強さ放っていた。今だから言えることなのだけれど、祖父はおそらく、その時、死を迎える準備をしていたのではないかと思う。そして何よりも、長年付き添ってきた孫である僕が到着するのを待っていてくれたのだと、そう確信している。
  僕は全くのおじいちゃん子だった。何を隠そう、僕は幼稚園時から高校生に至るまで、毎週土曜日には泊まりに行き、日曜日に自宅へ帰るという習慣を維持し続けたほどである。しかも寝る場所まで一緒なのだ。祖父と祖母が住む家に個人に与えられる部屋などというものはなく、僕はいつも夕飯を食べ、そして就寝するまで、祖父母と共に過ごしていたのである。そこで問題になるのは夕飯を食べて寝るまでの早さだ。彼らは夕方4時半には夕飯を食べ始め、6時か7時くらいには布団に入るという、とんでもないハイペースで一日の夜を過ごすのである。僕にとってはこれからが楽しいテレビ(めちゃイケやら野球やら)を観る時間だというのに問答無用に電気が消されてしまうのはたまらない。ただ、こんな習慣を課せられることに全く腹立たしさを感じないほど、それだけ僕は祖父に懐いていたし、何よりも尊敬していた。他の人が彼に対してどのような評価を抱いていたかは正確にはわからない。葬儀の最中に親戚の人たちが「あなたのおじいさんは温和だけど、とても人見知りをする人だったんだよ」と話してくれた。だが、僕にとって、祖父は都合の良いときに他人を避けるような態度を繰り返すというような特徴によって印象付けられた存在ではなかった。少なくとも僕にとって、祖父は何よりも無敵の存在であったのだ。誤解されないように言っておくが、無敵というのは、どこかのヒーロー漫画のなかなどで安易に使われるような比喩ではない。つまり言葉通りの意味で誰も適わない存在だったのである。学問的知識はと言えば、純文学から数学までの全てをこなし、その応用として様々な“物”を作ったりする。それは一種の発明とでも言って良い。道端に生えている草を積み、枯れ枝を拾っては面白い遊び道具に変えてみたり、新聞や広告の端には学校などでは見たこともないような綺麗な字で漢字を綴っていく。犬小屋が壊れたときには一層強固なものを短時間で作ってしまうし、僕が買ってきた最新のゲーム機器などの名称や構造をすぐに覚えて接続してしまう。どんな問題を課されたとしても「大丈夫だよ」という優しい笑顔を残して、技術的、理論的なあらゆる側面からの方法をもってして解決してしまう。それが無敵の祖父たる所以である。だが彼は、常に怠けて遊んでいた僕に対して一切、勉強をしろとか、学校の勉強はどうか、と聞いたりすることなどはなかった。それでも、祖父が持っていた知識の一つ一つは、特に実践的な側面において僕自身の内面に伝わってきたし、それは有益か無益かという側面において問われるものではなく、何よりも楽しいものだったのだ。今でも覚えている。幼稚園に通っていたとき、僕は祖父から「折り紙」を習っていた。毎日祖父と一緒に折り紙を作っているうちに、いつしかそれは100を超えるパターンとなっていた。結果として、僕は、幼稚園の頃には「折り紙博士」などというあだ名をつけられ、その頃、運動などでは他の子には適わないけれど、祖父から教わった折り紙なら誰にも負けることはないという一種の誇りを幼いながらも抱いていたように思える。一つ、そして、また一つ、折り紙の型を覚えていくたびに、僕は祖父から褒められていった。そして、「ほら。大丈夫だろう。ゆう君にだってできるんだ」と優しく語りかけられることに嬉しさを感じていたのである。
  そんな祖父がまだ意識を維持していたとき。もう耳は聴こえなかったけれど、未だに目の見えていたとき。最後の力で、サインペンを使って、たどたどしくはあるけど、かつて見たような力強い文字で書いてくれた言葉が僕に伝えられた最後の言葉になった。


「ときどき、あいにきてください」

「べんきょうをがんばってください」


それは、いつでも温和で、謙虚であった祖父らしい言葉であったけれど、それでも、今まで決して僕に何も要求することがなかった祖父の最後の我侭であったようにも思えた。なぜなら、祖父はこれまで一度だって、僕に対して「勉強」という言葉も、「帰ってこい」などという言葉も使ったことはなかったのだから。衰弱していた祖父は周りの人々からは弱い人間に見えただろう。けれど、僕にとって彼は強い人間でしかなかった。そこからは強さ以外の何物をも感じなかった。僕は、もちろん今でも無敵であり続けている祖父の手を強く握り締めながら、「もちろんだよ。おじいちゃん」と応えたことを覚えている。そのとき、ほんの少しでも伝わっただろうか。僕は死に挑もうとする彼の強さの間隙に、少しでも、自分の意志や言葉を入り込ませることができただろうか。そう、今でも時折問いかけることがある。
 現在、僕は大学院を目指して勉強を続けている。けれど、僕は祖父のためにそれを続けよう、などという気はない。なぜなら、祖父が最後の力を振り絞って書いた文字、その「勉強」とは、きっと、学校で行われるものばかりを示唆するものではないからだ。また、祖父は僕に対して如何なることをも強制することを嫌っていたように思えたからである。そのとき行われた単純なコミュニケーションのなかに、僕と祖父は他者から見れば一種の暗号のように捉えられるメッセージを取り交わしたのである。それを解く鍵は、幼い頃、折った折り紙や、そのとき積んだ草花や枯れ木のなかに、小学生の頃、夏休みに一緒に作った図画工作の作品のなかに・・・そうした一歩一歩、僕と祖父の歩みのなかにこそあるものだと考えている。だからこそ、僕は仮に出された膨大な課題や、大学院の受験勉強に追われている最中にも、外の変化に目を配ることを決して忘れたくはない。季節と共に変化する自然、虫の鳴き声、他者と交わされるたった一言の言葉、そんな些細な要素のひとつひとつが、祖父が僕に対してずっと伝えたいと思っていた知識に違いないからだ。いつか向こうへと行ったとき、僕は他の全ての人々から「おまえはどうしてそんな怠惰な生活を続けてきたんだ」とか「その要領の悪さはなんなんだ」と叱りを受けることを覚悟している。けれど、きっと、祖父だけは「ほら。大丈夫だったろう」と優しく受け入れてくれるような気がしてならないのである。
  僕はきっとこれから自分に子供ができて、孫ができて、そして、偶然にも彼らに対して何かを教える機会ができたとき。やはり自分にとって大好きだった祖父と同様にどんなことも強要することはしたくはない。絶対と言うことはないけれど、出来る限りはしたくない。
そして自分にとって大切な誰かが目的を見失って戸惑っているとき、子供の頃に幾度もかけられてきた言葉を思い出すことにしている。
そう、生きてさえいれば、周りをゆっくりと見渡すことのできる目さえあれば大丈夫なのだ。最初のうちは思った通りに事は運ばないかもしれない。紆余曲折はあるかもしれない。けれど、きっと大丈夫。今はまだ無理だけれど、いずれは祖父のように、そんなことを笑って伝えていける人間になりたいと考えている。





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これはゼミ誌のパラチンタに投稿したもので、
全て事実です。


祖父が亡くなる直前に握った手の感触も未だに覚えています。
連絡を受けて名古屋から静岡にかけつけたとき、祖父はほとんど意識がなかったのに間違いなくおれを待ってくれていました。
目も見えない、耳も聴こえない、身体も動かせない状況で。
朦朧とした意識のなかで一体どれくらい待ち続けていてくれたんだろう。そして、そのとき手を握ったのがどうしておれだということに気づいたんだろう。
その数分後に突然苦しみ始めて、あっと言う間に向こうの世界に旅立ってしまったとき。
祖父は自分のことを考えていてくれたのだろうか、時々、そんなふうに思い出すことがあります

誕生日でした。

ここまで生きることができたこと。


家族や、ここに来てくれてる皆さんを含めた多くの友達、
今まで支えてくれた皆に感謝を。




そしてこれからもよろしくお願いします!!

新しい夏が。

来ちまったーっ。暑い暑すぎる・・・。
しかし今年の夏は冷夏(精神的に)になりそうな予感がします。


一回くらい熱い夏とかあっても良いと思うんだけど。
そのへんどうなのよ>誰か




20060704_1023_0000.jpg
































んん??(目を凝らす)





おおおっ・・・自転車の上にノコがっ!!!

ノコギリクワガタが鎮座しておられるっ!!!
















なーんて。



実は自作です。バイト先の子供たちを喜ばせるため。


ひっかかった人は今日から友達になりましょう。純粋な人は大好きです。

「最初からわかってたぜ(わかってたわ)」って人は相方に。クールな人は大好きです。





おっと言い忘れてましたが、ゴキブリだと思った人は絶交です。
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