2007年04月

スイカのタネ

200704282239000.jpg

Suicaを買ってみた。
もちろんのことながら人生初Suicaである。使ってみて初めてわかる。
超便利ですね、これ。

しかし、一つ疑問が。
まぁ、気にしなければいい。気にしなければいいことなのですが・・・はたして・・・


なぜペンギンなのか。



気になって気になってしょうがないので友達に聞いてみました。
そしたら「知らん」とのこと。
仕方がないので自分で調べてみましたよ。


「広大な南極海で「スイスイ」泳ぎ回るペンギンの所作と、Suicaで”スイスイ”便利になるというイメージとを掛け合わせたもの」



うん。


・・・・・・え?それだけなの??


どうやらそれだけのようです。
写真のペンギンとか明らかに歩いてるじゃないすか。
もっと深い意味が込められてると思いましたよ。

たとえば「ラッシュ時に電車のなかに押し込められたサラリーマンたちが腕も足も動かせないほどにガチガチに固まってる状況。あと一歩、あと一歩動けばおそらくドミノ倒しになる・・・しかし、むしろやっちまうか。連夜の残業のストレス発散しちまうか」という破壊衝動で目が真っ赤になってる状況をペンギンという象徴記号で表したとか。


すみません冗談です。


さて、明日からGWですね!!!皆さんも良い休日を~。

芥川ニーチェ

ジグザグラックの上でどんな植物を育てようか迷っています。
僕は何かハーブでも育ててみるのが良いんじゃないか・・・と漠然と思っていたのですが、友達曰く、

「ミニトマトとかもいいんじゃね?」


とのこと。
うん、確かにミニトマトでも良いですよね。食べられますし。リコピン豊富ですし。丸くて癒されますし。
ただねー、よく考えてみると、ミニトマトって”実”がなくなっちゃうと凄く寂しくなってしまうような気がするんですよね。想像してみてくださいよ。窓際で一生懸命育てたミニトマトの実をサラダの上に乗っけて食べた・・・その後をっ!!!!

少なくとも窓際のアイデンティティが崩壊すること請け合いです。ペシミスティック空間です。
したがって、僕は来るべき彼らの終末に寄せるという意味で、このトマトに相応しい名前をつけてあげなければなりません。


たとえば・・・そう、








芥川ニーチェとか。(トマト名)










ちなみに”実”の方がニーチェです。残りの緑の部分は全て芥川です。

ニヒリズムは爛熟すると自然に落ちるか喰われる運命なのです。
もちろん神じゃなくて人間に。




追記

ゼミの皆さん、勉強会お疲れ様でした!!!
明日からもまた頑張っていきましょう~っ笑顔

本日は”日曜日”です

こんばんは。

本日は友人と一緒に池袋散策をしてまいりました。
もっと具体的いうなれば「本屋荒らし」です。ジュ●ク堂の店員さんたち、まことに申し訳ありませんでした。あたかも図書館であるかのように数時間に渡って居座って立ち読みしまくっていた二人組とは僕らのことです。

それにしても、今までハードカバーでしか出版されてなかった本が次々と文庫化されていたのは驚きました。アドルノ;ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』なんかも今年に入ってから文庫化されていたのですね。あと、フリードリヒ・キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』とかも。
実は今日は喜多川奏という作家さんの『君と会えたから・・・』という小説だけ買おうと思っていたのですが、『啓蒙の弁証法』の方だけ思わず衝動買いしてしまいました。イカンイカン・・・こんなことだから万年金欠地獄の輪廻から抜け出すことができないのだ。ナマケモノと人間の生の連鎖に囚われるのだ。

ニルヴァーナへの道程はまだ遠い。



追記

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070422-00000011-rcdc-cn

余計に事態が悪化するんじゃないのか?と思ったのはおれだけじゃないと思います。
実際に北京に行ってバスに乗ればわかります。もうあの渋滞は多少”カタチ”を変えたくらいで解決するようなものじゃないのです。なんといっても歩道をエンジン付きの自転車みたいなのが問答無用に走ってるくらいですからね。

ジグザグラック

完成しました!

200704151010000.jpg

これもまた一苦労でした・・・・・。
ただ、このジグザグラック、意外と軽くて移動しやすい上に、
縦にも横にも置けるので重宝します。
色はホワイトを選んでおいて正解でした。クロスや部屋の雰囲気と上手い具合に調和してます。

ただ、問題はどこに置くかなんですよね。
今は都合上、窓際に設置しているわけなんですけど、思ったよりも”背”が高めだったために窓やカーテンを開けたり閉めたりするときに多少邪魔になる可能性はありです。
なので、向かいの壁際に横向きで設置し直そうかと考えているのですが、日当たりの関係上、窓際の方が都合が良いことも確かなんですよね。

んー。まー、もうちょっと考えてみることにします。
上手く窓際に置くことができたら何か植物でも育てるつもりです。



余談~読み飛ばすべきもの~

哲学やメディア関連の本を読んでると、意外に「constellation」(星位)という単語が出てくることに気づく。

確かハイデッガーも技術論関連の著作のなかで「Konstellation des Seins」という言葉を用いて「存在の星位がわれわれに語りかけてくる」と評している。図像学者として有名なベルティングもやはり「ここに身体、メディア、そしてイメージとういう三つの柱が相互連関されることで形成される一つの立体図が最大の明快さとともに現れてくる」という説明をconstellationという単語を用いることによって鮮鋭化させている。
このconstellation=Konstellationという単語は元々錬金術師(あるいは占星術師)として有名なパラケルススの言葉に由因するそうだ。

「個人の身体の各部位は星に対応していて、星位によって変化する」
ミシェル・フーコーが『言葉と物』のなかで幾度も言及しているように、過去の世界はあらゆるもの同士によって織り成されるアナロジーとリンケージに満ちていた。現在のように物質や概念の正確なカテゴリー化がなされた書物がほとんど存在しなかったその時代、そうした”繋がり”を内包させた世界こそが人間の記憶(あるいはそれに基づく伝承)を媒介とすることによってあたかも本であるかのようにみとめられたのである。
そのとき”僕の身体の一部”と”あの星”が繋がっていることは(宗教などという体系を用いずとも)人々にとってごく自然な共通認識であったし、それは単一的に語られはしないけれども明らかに世界と人間との関係を表象する一つの物語としての意味合いを持っていたと言える。

日本語訳ではconstellation=konstellationという言葉はしばしば「布置」などという単語に意訳されてしまうけれど・・・

僕はやっぱり「星位」という訳の方が好きだ。

プルコギる

ついさっき、近くのオ○ジン弁当へ惣菜を買いに行ったときのことです。
カウンターで言い争うような声が聞こえてきたので耳を済ませてみると・・・お客さんが、


「プルコギ弁当って何味なの?ねぇ、結局何味なの?」


と、しきりに質問していました。
それを受けて店員さんたちは「えーっと、あれって何味って言うんだろうね。味噌味?」「ピリ辛じゃないの?」とか小声で囁きながら、結局、


「たぶん、ピリ辛の味噌味だと思います」



と、妥当な返答をしていました。「結局ミックスかよ」とか「プルコギに味噌なんて使わないじゃないか」とか言ってはいけません。
店員さんたちは頑張りました。なぜならこのお客、そのちょっと前にも「このプルコギ弁当の野菜って取り除ける!?全部入ってるんでしょ?肉だけにしてくれない?!」とかわけのわからないことを言っていたのです。それも店内に響き渡るような大声で。


(野菜を除いたプルコギなどただの肉だ。おとなしく庭でバーベキューでもやってろっっ!!!)


と叫びそうになりましたが、なんとか耐えました。おれももう大学院生。そろそろ”耐え忍ぶ心”というものを身に着けても良い頃です。それにくらべてさすがに百戦錬磨の店員さん。あくまでも冷静な対応をし続けるその姿勢に感服いたしました。



・・・・・・ただ、一つだけ言わせてください。



プルコギってプルコギ味だと思うんだ。


だってさ、う○い棒のバリエーションを見てくださいよ。


納豆味。

コーンポタージュ味。

チキンカレー味。

テリヤキバーガー味。

プルコギ味。


ほうら、味覚的にも、視覚的にも、何の違和感もない。


ないですよね?
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