2007年05月

雷と麻疹には気をつけるべし

帰る頃にはいつも雷雨。
少し前の日記でも触れましたが最近自分が”雨男”属性を帯びてきたんじゃないかと思えてならないYouです。こんばんは。
日本における一年間の傘の消費量は全国人口を超える(世界一!)らしいですが、僕のこのささやかな能力がわずかばかりであっても日本経済に貢献できると思いこめば、この呪縛もそれなりにポジティブな価値観を備えることになろう。

そうそう、呪縛で思い出したんですけど、一昨日金縛りにあいました。
寝てる最中に耳が”キーン”となって起きようと思うのですけど、身体動かず、声も出せず・・・自分、金縛りの経験って結構多い(年に一回くらい)ほうなのですが、今回はちょっとやばい感じでした。よく「金縛りは疲れとかでなるんだ」とか言われますが、そういうのとは何か違う感覚なんですよね。んー、まあいいか。

さて、明日は完全オフなので、友人とどっかぶらついてこようかと~。どこ行くかなー・・・・そいや、「美人のつくりかた」という日本の美人画展(?)の無料チケットをもらってたから飯田橋に行くのもいいかもしんない。え?もちろん”美の本質とは何か”という哲学的命題追究のために行くのですよ。
明後日は博士論文の批評会に参加した後に院生皆でコンパです。何でも新入生にはサービスしてくれるとか・・・さぁ、栄養摂取のチャンスきたよ。



追記

約二年ぶりの本多孝好さんの新刊を読了。
いままでとちょっと違う本多テイスト。良かったです。
しかし文体変わったな~。今回だけ意識的に変えてるのか、もしくはこのまま定着させるのか。誰の影響を受けたんだろうか興味深いところではあります。賛否両論あるかと思いますがおれはこれはこれでわりと好き。

http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A3%E7%BE%A9%E3%81%AE%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%82%BF%E2%80%95I%E2%80%99m-loser-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%AD%9D%E5%A5%BD/dp/4575235814/ref=pd_bbs_sr_1/503-1897688-6519116?ie=UTF8&s=books&qid=1180620513&sr=8-1

ご冥福をお祈りいたします

今日は残念なニュースが多くて軽く鬱です・・・。
ガッツが足りないので日記は勘弁してください。

その代わりとはいってはなんですが過去に書いたレポートなどを掲載してみました。この清水幾太郎小論は大学3年次の7月の課題として提出したものです。確か最初は九鬼周造の『近世西洋哲学史稿』を読めと言われてたのですが、●●教授が長期間持ち出しっぱなしでどこかにやってしまったそうで、そこでイライラしててもカルシウムが足りなくなるだけなので代わりにスパっと清水幾太郎論に移行したのでした。でも、これも結構面白かったです。多少狂気を孕んではいますが良い思い出です。

清水幾太郎小論①

序論

現代に生きる私たちは科学的検証において導き出される結論に対して、絶対的な価値観を置こうとする。その結論は一つの事実として認められるからである。近代以降のヨーロッパにおいてもそのような傾向が強くみられ、特に数学的形式などによって築き上げられる実証主義的性格は色濃く反映されてきた。今回のレポートでは清水幾太郎の論点を参考にしながら、19世紀から20世紀前半にかけて主流となっていた倫理学、経済学、言語学を主として含む思想的傾向を追い、それを当時の多くの思想家たちがどのように受け止め、肯定あるいは批判的意見を述べてきたかということを中心的に扱う。この時代においては、個別の学問や思想一つ一つの発展だけが求められるのではなく、多種多様の学問の綜合の中において価値が見出されていくという傾向が強まってきた。また、そのニヒリズム的世界観も相まって、人々は人間そのものに対して価値を求めることになる。事実と価値、現実と非現実、演繹的方法と帰納的方法が同時に求められつつ、綜合されていった時代でもあると言える。

1.“善”について
「善」という言葉を聞いたとき、私たちは最初にどのような意味を想像するだろうか。善を英語に翻訳して比較しようとすると「Good」とか「Goodness」という言葉が引き出されるが、どうもしっくりこない。英語を初めて習い始めた中学の頃から度々使用してきたGoodとは、「良い」という意味で他の名詞などと共に想像することはできるのだが、善という名詞に置き換える、またそれ自体独立した概念として捉えようとすると少々高尚すぎるきらいがあるというか、とりわけ日常生活の中で多用する言葉とはかけ離れたイメージがある。本などを読んでいるときに時々あらわれて、いかにも厳粛に扱われるこの善というキーワードを発見すると、なぜか性善説などという普段全く考えもしないことを思い浮かべてしまうのだ。逆に、通常その対義語として扱われている「悪」に関しては比較的明瞭なイメージを掴み取ることができる。その理由として、悪という概念、また、それが付随であろう物、人物像などをはじめとする対象の方が、善という概念よりも馴染み深いものであると考えるのが妥当ではないだろうか。本章で最初に考察していくのは、この善が主として20世紀の倫理学的、あるいは言語学的にどのような位置づけをされてきたのかということであり、また、その思想的特徴が当時の功利主義などによって代表される自然主義に対してなぜ批判的姿勢を維持してきたのかという観点にある。清水は著書『倫理学ノート』においてムーアの論点を中心的に扱っているのだが、ここでムーアにとっては自然主義的に捉えられた善の概念とは幻想であり、一つの誤りであるという見解が述べられているのである。
ムーアは「善はXである」という一つの命題において、Xが何であるか、またその真偽を証明する方法はないと強調している。つまりここで、善は快楽だ、善は幸福だという一つの解答を導き出すことはできないと述べているのである。彼によれば、このような安易な置き換えこそが「自然主義的誤謬(naturalistic fallacy)」にあたるものとして、倫理学的に本来問われなければならない善とは何かという問題の輪郭をぼやけさせてしまう原因として危惧されているのである。清水の論証によれば、ムーアが提唱する善とは、彼自身がはっきりと答えているように本質的に定義が不可能なものとして述べられている。したがって、私たちがしばしば考えるような、特定の行為や、物、人などとの関係性の中で、その物や行為自体が属性的に善であるとみなされること、そして、そのように形容されることによって善性を帯びた対象物や行為自体を善と同一化したものとして認知することからは明確に区別される。ムーアによれば、善とは、そもそも人間が論理的に捉えることのできるものではなく、直覚によってのみ明らかにされるものとして規定され、時間概念をはじめとするあらゆる自然的、人間的束縛から解放されたものだという見解が述べられている。つまり、そこに自然科学的見解、分析などの手法が介在する余地はない。対象となるものが複雑な機械であるならば、ばらばらの単純なパーツにまで分解していき、その全体的構造を把握することは可能であろう。しかし、そこに存在するもの極めて単純と言うこともできる対象、ここで扱われている善などの観念であった場合、それを更に諸部分にまで分解して分析することはできないだろう。私は与えられた問題がある程度複雑な数式であっても学習してきた演繹的方法を用いて一定の解答を求めることはできると思われるが、最初に提示されたものが0や1などの数字のみであり、その数字自体がそもそも何なのかということを問われると首を傾げてしまうことになるはずだ。1は数量的に1つあるということを表すなどと仮定すること、他の数字などと相対的に比較することはできるが、1という数字自体が独立して何を意味するのかということに対して答えを導き出すことは難しい。多少余談を持ち出してしまったが、清水が批判的な意味において最も注目しているムーアの思想的特徴も、善という概念に対するこのような非自然的、非分析的姿勢を固持しているという点にあると考えられる。
次に主要なテーマとしては同様であるが、少し視点を変えて、言語分析の側面から考察していく。イギリスの功利主義者であるJ.S.ミルは、先に述べてきたような価値の概念に対して、幸福や目的という具体的な言葉を用いながら「desirable(望ましい)」ものであると主張している。これはムーアのように善という純粋な価値そのものが事実上論理的に証明不可能であるということを意味するのではなく、むしろ、人間がそれを「望んでいる」ということを基点とする経験的な要素を含むものである。ミルにとってdesirableとは人間がある対象を自らの知覚によって認識することができるということをも条件に含み、その上で人間自身が望んでいるということが一つの前提となる。ここで重要なのは、このdesirableがvisible(見える)やaudible(聞き取れる)などという人間の知覚に関連した意味を持っているということである。この観点を考慮するならば、純粋な価値、つまり善に対して人間の知覚的要素の介入を全く許さないムーアの見解と対立することは疑いようがない。その原因としては、前述してきた内容に加えて、ムーア自身がdesirableを「worthy to be desired(欲求される価値がある)」として定義づけられることで、人間の自然的欲求や知覚との関連性がない独立した概念として解釈している傾向が見られるからである。では、この両者のどちらの言語の解釈が一般的に受け入れられていたのだろうか。清水によって当時のイギリス人たちの具体的な反応が紹介されているのだが、主として肯定的に受け取られているのはミルの解釈である。もっと具体的にいえば、ミルの論証において重要な要素として扱われている、具体的経験が言語に与える影響は大きいという解釈だと言えるだろう。殊に、一般的な言語の使用法という観点に着目するならば、人間が遭遇する個別の経験的な要素は除外することのできないものであるということに関しては納得できる側面である。
本章でここまで扱ってきた問題について考えてみると、総じて、善という概念あるいは言語分析を扱った論争のみに収斂されるのではなく、それを一つのモデルとすることより根本的な「事実」と「価値」との新しい関係性について模索する必要性を提示しているように思えてならない。清水が、ムーアが固持する自然主義的誤謬とマックス・ウェーバーの「Wertfreiheit(価値自由)」とを類似したものとして例に挙げているように、ここで問われているものは様々な学問領域、思想的領域において、価値や経験などの要素をそれぞれどのように位置づけなければならないかということに関しての論争と、その解決法であるとも言えるのではないだろうか。実際にはその要素は学問ごとに選別され、より純粋な独立した形で保護されることが求められてきた。たとえば、ムーアが自然科学的方法から善の純粋な価値を保護しようとしたことに対して、ウェーバーは恣意的な価値判断の分離から純粋な科学的方法を確立するというという目的を示している。だが一方で、これはあくまで、特定の要素(価値、経験など)を保護するということが最優先であり、必要でないと考える要素の積極的な否定をしているのではないと思われる。その意味では、ムーアが提唱し、20世紀前半の倫理学において主流となっていた自然主義的誤謬という理論は、単に価値の保全を目的として功利主義と戦うための武器というだけではなく、全く逆の発想になってしまうが、価値と事実の共存の可能性についても考えさせてくれるものであった。

清水幾太郎小論②

2.幸福計算からの考察
 前章ではムーアが指摘する善に関する理論を基点として、学問的に価値と事実がどのような位置づけをされてきた傾向にあったかということ、そして、これから考えていかなければならない問題点に関して触れてきた。本章において重点的に考察していきたいと考えているのも、一つは価値やそれに関係する事実のあり方なのだが、今回は視点を変えて、ムーアが主として批判の対象として考えていた功利主義、特にベンサムの「幸福計算」に関して言及していく。最初に述べておくが、この理論は清水が著書で度々強調しているように、多くの学者から非難された論点を多く含んでいる。とりわけ、人々の快楽、苦痛などの本来的に道徳的、主観的感覚に属するものを、科学的に検証し、数学的に表現するという方法に基づく幸福計算は、特に経済学と倫理学の両方の分野に関わる多くの人々から強く批判されている理論的特徴を含むものである。詳細な理由は後に具体的な観点から説明していくが、この問題に関しては前章で述べてきた内容や私たち自らの経験に重ね合わせてみても何となく理解できるだろう。たとえば、ムーアに代表されるような倫理学的見地からすると、価値が加算可能なものとして扱われるということが問題になるであろうし、一方で経済学的見地からすれば、科学的検証の対象に価値などという恣意的な概念を介入させるわけにはいかない。前者は価値を、後者は科学的方法によって導かれる事実をできる限り純粋な形で保護したいと考えるわけであるから、その両方を事実上混同させることになるベンサムの理論を肯定するわけにはいかないのである。ところが、清水はこの批判的意見が多い幸福計算に関して、事実認識と価値との連続性に対するある程度の寛容を見出せるという意味においては評価するべきであるという見解を示している。私たちはここで倫理と経済学、事実と価値とが交錯する点に注目していく必要があるだろう。ベンサムの幸福計算は一定の価値を厳密に数学化するという意味においては、多くの経済学者たちが指摘しているように確かに無理があるとも考えられる。しかし、その関心を固定化された論理ではなく、社会全体、人々の細分化された道徳的要素に置いていること、彼自身が表現するところの新しい「道徳科学」の可能性を模索するための方法として用いているという方向性はとても興味深い点であると言える。では、幸福計算に関してより具体的な内容について考察していく。
幸福計算をしていくにあたって、ベンサムはまず、最も根本的な要素となる快楽の価値の数量的変化を規定するものとして、強さ(intensity)、長さ(duration)、近さ(proximity)、確かさ(certainly)の四つの条件を提示している。まず「強さ」であるが、ベンサムによれば、人間の快楽が徐々に減っていくとそれはやがて、快楽という感覚を何も感じることのできない無差別状態に到るという見解が述べられている。ここで、その無差別状態、および、その直前に至る最小限の快楽を感じている状態がそれぞれ0と1の強さを持つものとして規定される。この快楽の強さが日常的経験の中で徐々に増していくと、その全体的な量も累積的に加算されていくことになるが、前述したように下には無差別状態という限界があることとは異なり、上には限界が設定されていない。次に「長さ」についてであるが、これは主として時間の長さを示している。強さと同様にその最小限に関して考えると、時間の最小限とはすなわち瞬間を意味する。この瞬間の快楽を最小のものとして捉え、これも強さと似た傾向を示すものとされるが、時間と共に快楽が持続していくにつれてその全体的な量も上限なく増加していく。ところが、次の「近さ」からはこれまでのように最小限が設定されるのではなく、まず最大量が規定される。ここで私たちが感覚的に最も近く確実に享受できる快楽は現在の快楽であることは疑いないわけであるから、これが最大量となる。したがって、近さという条件にのみ着目するならば、快楽は現在から離れていくごとに徐々に減少していくものになる。最期に、「確かさ」があるのだが、これは快楽の享受に関する確実性を意味するものであり、先に述べた近さで少し触れたように、現在が快楽を得る上で最も適当な状況として認識するものである。これらの諸条件を考慮することによって、人間個人、また社会全体が得ることのできる幸福の量を規定することが可能になるとベンサムは述べている。先に四つの条件下において示してきた快楽の最小限、つまり1に値するものは快楽の最小単位、つまり換言すれば快楽のアトムとして捉えられる。この観点がベンサムの理論において特に特徴的なのであるが、清水によってアトムという表現が多用されているように、彼の方法は快楽などという本来観念的にしか捉えることのできない要素を扱う際においても、その徹底的な細分化に重点を置いているのである。
しかしながら、これまで述べてきた論点に大きな問題点があることも理解できるだろう。その問題は特に、このベンサムの理論の効用を個人間の比較に適応させていく上で、どこまで科学的厳密性を確保できるかという点にある。では、ここで少し具体的な例を扱ってその重大な問題について説明をしてみたい。
今、ここにAさんとBさんという人物がいると仮定する。Aさんは所得の面でいわゆる
お金持ちであり、Bさんは貧乏な人であるとする。ここで、三日後に両者が以前に購入していた宝くじの抽選発表があり、なんと両者共に100万円が当たってしまった。さて、この状況下において両者の快楽、幸福の度合いというものを測量、比較することができると考えられるだろうか。通常、まず私たちは以下のように考えるだろう。つまりBさんの方がAさんよりも貧乏なのだから、Aさんが100万円をもらうときよりも、Bさんが100万円をもらったときのようが幸福の度合いは高いものではないのか、と。だが、本当にそうであろうか。そのようなことが科学的に証明可能だと言うことができるのだろうか。ここで個人間の幸福の比較を検証する際に科学的厳密性を欠く部分があることは否定できない。この論点をはじめとして、特に前述してきた快楽の強さに関連する要素は、私たち個人が感覚的に享受して表現する限りのものとして扱われる傾向にある。したがって、ここに客観的事実を歪曲させてしまう主観的判断、恣意性を含まざるをえないという批判点が経済学者のロビンズやテイラーをはじめとした多くの社会科学者などから提起されているのも、あるいは当然であると言えるだろう。テイラーは述べている。「『幸福計算』によってこれらの科学を精密科学たらしめようとするベンサムの努力は、根本において幻想であり、また沢山のナンセンスを生み出した。」(清水『倫理学ノート』、p87)特に経済学が取り扱う領域においては、対象の科学的、客観的検証によって求められる明確な量的要素を見出さなければならない。これに対して、ベンサムの幸福計算に用いることでは人々の感情の量や長さを正確に測ることが不可能であることは明白である。感情の単位を規定することはできない。それは非厳密的な世界の中に止まることを余儀なくされる。
 だが一方で、歴史を過去に遡っていけば、元来科学というものは非厳密的、あるいは観念論的世界との関わりの中から生まれてきたものではなかっただろうか。私たちは科学という言葉を聞くと、いかにも精密な機械や数学的方式などを思い浮かべるが、それは元々何も定式化されていない自由奔放な思想、発想から始まっていったものとして考えることができるのである。対象にしても、現在当然のように科学的に分析することが可能とされている対象の多くが、以前は観念論的にしか捉えることのできなかった概念だったのではないか。たとえば、時間の概念などはどうだろう。今でこそ、時計という機械によって媒介され、細分化され一定の時を刻んでいるということに人々は疑う余地を持たないが、それはもともと自然の循環と共に在り続けるという個人の恣意的な判断に委ねられていたものではなかったか。秒、分などといった単位はもちろん存在しなかったのである。科学的対象として扱うことのできるものは、すなわち人工的な要素を含む。人工的であるということは、非厳密的であるということでもある。芸術作品に私たちが求めるのは一方で作品としての完全性ではあるが、それは感情を備え、個別の経験の中で生きる人間が制作しているという時点で必ず非完全性を内包することを前提として鑑賞するものである。音楽でも、絵画でもそうであるが、完全性と非完全性が連続しているからこそ人間的であり、また、だからこその美しいと思えるのではないだろうか。私は、他者、自然などと対する。この一定のコミュニケーションの中で、ベンサムが提唱するような快楽を1、2と数字で置き換えていくような厳密さはもちろん求めていないだろう。しかし、私たちは相手の感情、自分の価値を量的に計るということをしばしば試みているように思われる。それは当時の経済学者が科学と述べるような厳密さはもちろん備えていないが、大小というある程度の量的要素に置き換えることによってコミュニケーションを試みている状況があるのではないか。

清水幾太郎小論③

3.論理と生命の融和
 これまで述べてきたように、20世紀の初頭に特徴的であった思想的傾向は、近代以降から発展し続け、19世紀から結実してきた科学および技術を主体とする厳密な方法に影響を受けながら形成されてきた。その方法においては、自然、人間、言語などを対象として、前章でも用いた言葉で表現するならば「アトム」とも言える細分化された単位にまで極めて綿密な形で分析されることが求められることが多い。それは前章で主として扱ってきた経済学の分野のみではなく、哲学などの分野をはじめとして多様な学問、思想的領域にまで広がっていったのである。その傾向は、たとえば、ラッセルの数学的論理学に代表されるような、論理学における事実と命題の徹底的な厳密化を進行させる。彼の理論によって用いられている論理的アトムとも言うべき要素が形成するものは、厳密に細分化された命題、事実によって導かれた無機的で固定化された論理的世界観でもある。また一方で、清水によれば、この当時、特にダーウィンの生物学の影響を受ける形でもう一つの思想的潮流が形成されつつあったことが述べられている。これが本章で後期ヴィトゲンシュタインの論理学を中心的に述べていきたいと考えている、有機的要素と論理との融和の可能性についての論点である。ここで清水によって扱われている論点はこれまで述べてきたムーアの理論、ベンサムをはじめとする功利主義者たちが提唱してきた内容を含む、20世紀以降の思想を読み解いていくためには避けては通れない重要な論題を提起していると言えるだろう。
 ヴィトゲンシュタインの論理学を通時的に見た場合、その特徴な全体的傾向は、前期と後期で決定的な変化を遂げているという観点にある。前期のヴィトゲンシュタインはラッセルの理論とも類似するものであり、彼の著書『論理哲学論考』を少し読んでみるとわかるが、私たちが文章を書く上で通常用いる修辞的要素が極限まで排除された、純粋な命題の論理的形式が記述されている。清水が論理的アトミズムと述べているが、それは徹底的に分析された上で導き出される論理的必然性をも示唆する。たとえば、「太陽は明日も昇るだろうというのは一つの仮説である。すなわち、われわれは太陽が昇るかどうか、知っているわけではない」(ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』p142 )という一節があるが、これはつまり、未来の出来事を現在から推測することは論理的に不可能であることを意味する。私たちは日常的習慣のなかで、特定の因果連鎖を信じることで、次々に起こるであろう現象を推論し、疑いようのないものとして受けとめようとするだろう。ヴィトゲンシュタインはその判断が一つの迷信であると主張するのである。すなわち、私たちは、いつも通りある出来事が起こり、そして次にまたある出来事が起こるという因果の法則性のみに信憑性を置き、実際に明日再び太陽が現れるということを知らないのものとして論理的に規定される。このように、前期ヴィトゲンシュタインの理論の特徴はその論理型式の究極的とも言える厳密性に見出すことができる。言い換えて特徴を説明するならば、それは無機的であり、人間性に位置づけられる要素がほとんど含まれていないとも言うことができるだろう。ところが、後期の思想的段階に入るとその理論的特徴は一転する。前期の理論では退けられてきた有機的、経験的、人間的要素などが論理学において特に重要なものとして位置づけられることになってくるのである。前期においては冷たいとも表現されているヴィトゲンシュタインの分析哲学は、生命感との融和を果たしていくことで有機的、経験的な暖かさを帯びていくことになる。また、この両段階の思想的特徴からは明確な違いを認識することになるが、一方でその一連の過程は単純に前後に区別できるだけではない。ここでラッセルの理論によって象徴されるような、独立した原子的要素をその論理的宇宙観の中核に据える方法に対してデューウィが提唱した、具体的生活、感情、意志との綜合のうちにある思考の連続性を思い浮かべる。「世界と生とはひとつである」とは『論理哲学論考』において記述されている一節である。私はヴィトゲンシュタインがこの生という概念をどのように捉えていたのかということに関しては、もちろん正確に理解することはできないが、この一語に少しでも有機的な生命感という意味が含まれているのならば、前期と後期の理論とは一見すると全く異なるように思えるが、そこに隠されている確かな連続性を見ることができると考えるのである。
 清水の論証によれば、後期ヴィトゲンシュタインに見られる新たな思想的特徴が導き出された契機の最も顕著な例として、彼が1920年に小学校の臨時教員になって以降、子供の言語習得、またその実質的な使用方法に関してとても強い興味を示していたことが挙げられている。したがって、先に述べてきたような論理の厳密性、普遍性に即した特徴に対し、後期の段階において彼がまず注目したのは、言語が実際的の生活の中でどのように使用されるかであり、また子供のようにいまだ未完成だと思われている存在の価値観を再考することであったといえる。事実、子供はこれまでも、そして現在でもしばしば大人によって未熟な存在、不完全な存在として扱われてきているのは確かだろう。また、この論点は、単に完成された大人に対する未熟な子供という意味だけではなく、国際的な視点から見た場合には、文明社会と野蛮社会との対比にも置き換えることができる。ここで問われているのは、傲慢で閉鎖的な価値観のみしか持ち合わせていない誰かによって計られる優劣などというものではないだろう。文化人類学において調査された未開社会の人々が、文明社会に生きる人々には到底考えることもできないような素晴らしい宇宙観や、それに基づく思想体系を構築しているように、大人は子供に対しても何らかの可能性を追い求めていると言えるのである。私は、その傾向に関して単純に自分にとって欠けている可能性を、彼らの中に見出そうとしているだけではないと考えている。私は、彼らが持っているものを、私の中にもあるものとして確信しているからこそ、それを引き出すことのできない自分自身に対してもどかしさを感じるのではないだろうか。その一つが現実社会との関わりの中で経験的に得る必要があるリアリティであり、また、生命感である。
 ヴィトゲンシュタインが著書『哲学的研究』の中で強く指摘していることも、当時の人々が言語の構造を研究して行く際に、いかにその一般的概念、普遍的論理にばかりに目を向けているかという観点にある。ヴィトゲンシュタインは言う。「そして、一つの言語を思い浮かべるのは、一つの生活形式を思い浮かべることである」(清水、p188)ここで用いられている生活形式という表現は、ドイツ語では文中に「eine Lebensform」と述べられており、清水によれば、それは生活形式というよりも、正確には「生命形式」と日本語では解釈するべきかもしれないという見解が述べられている。このような生活あるいは生命形式、すなわち、私たちが実際に日常生活をしていく中で直接的かつ経験的に得ている有機的要素、また言語を使用するにあたって行っている一つ一つの行動の連関が、言語の習得、またその使用に大きく寄与する。ヴィトゲンシュタインがこのような理論を携えて追い求めたのは、やはりリアリティであると思われるが、それはもはや徹底的な分解と構成から成る静的な論理のみに収斂するものではなく、個別的な経験との関連のうちにある歪ではあるが動的なリアリティであると言えるだろう。
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