2007年08月

残念な結果と嬉しい予定

ここにきて「大失敗じゃないのか?」と囁かれはじめている世陸ですが、
僕としてはこのニュースを見て辟易。心底情けない。

選手を床に寝させてしまうとか・・・・・・。
部屋が少なかった、とはいえ、視聴者がパッと見てもスタンドががらがらという状況がわかるのですから。どうにかして空き部屋を作ってあげることくらいはできたはずです。
事実ならば大失態というやつでしょうね、これは。「報告もうけてないし、確認してない」という某組織委員の話の真偽がどうであれ、そもそも、現にこういうことが起こっているのに報告を受けていない確認してないなどと断言できてしまうこと自体が大問題だと思うのですよ。

選手達はそれこそ死ぬような思いで練習を積み重ねて命懸けでここまできてるのですから。お決まりのマニュアル対応はいい加減にしなければならない。


さて、閑話休題。


ここにきてだいぶ涼しくなってきましたよねー。
9月に入ってすぐに(3日くらい)大学時代の友人が遊びにきてくれるというので楽しみにしてます。
10日あたりには学部時代の師、同級生、後輩も遊びにくるとか!なかなか楽しい月になりそうな予感です。しかし師匠の方は正直いって一筋縄ではいかない御方(武闘派の超思想家)なので皆が一緒にきてくれるというのは嬉しい限り。二人で話をすると、ゼミのネタ→映画ネタ→推理小説ネタ→時事ネタまでいくと話題が尽きて、あとはマルクスネタとか危険な方向に進まざるをえないわけで。油断してると革命エルボーやら剰余スープレックスなどの必殺技の直撃をくらって血を見ることになるでしょう。そして再び天国へ。まったく・・・師が発生させる排他的トポスはどうしてこうも僕らゼミ生を精神的アウェーへと追い詰めるのでしょうか。いずれにせよ久方ぶりの直接的コミュニケーションなのでしっかり理論武装していかないと完膚なきまでにやられる可能性アリ。

ラーメン缶を完食しよう!の日・前編

こんばんは!
今日は午前中暇だったのでブラブラと散歩していたら・・・自宅近くで激安の自動販売機を見つけました。


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いや、そりゃ安いところはありますよ。
でも50円とか、生茶とオレンジジュースの間にビールあるとか、どんだけですか。もはや神の為せる業以外の何物でもありません。なむなむ。


そうそう、ついでにドンキホーテにも立ち寄りましたよー。
そしたら今(というか少し前かな?)話題になってる「ラーメン缶」なるもののが置いてあって買おうかどうしようか迷いました。値段は298円(だったと思う)。
ブログとか読んでまわってると「ラーメン缶はおいしい!」とか「絶対一度は食べるべき!」とかいうわりと肯定的な意見が目に付きます。絶賛とまではいかないにしろ、7割方の人が美味しいようなことを言っていました。


だから一度は食べたい。食べたいと思っていたのですが・・・いざ原物を目の前にして(これほんとにおいしいのかよ・・・)という疑念が。しょうゆ味と味噌味があったのですがなんかパッケージがシュールレアリスムです。あと原材料のなかに蒟蒻麺と書かれてるのが怪しさに拍車をかけている。つーか、ラーメン缶の麺って蒟蒻で出来てたのか!初めて知ったよ!


そんなこんなで、まぁ、色々考えてみたのですけれど。
・・・えーと、結論から言いますと・・・今回は買いませんでした。すみません。


一番大きな理由としてはやっぱ蒟蒻。2年ほど前に友達と一緒に岐阜の奥地までドライブをしたことがあるのですが、そこで食べた「こんにゃくラーメン」(その地域の名物)とやらの味が激しく微妙だったので。
もしかしたらラーメン缶って色々な種類があって今回見つけたのは異種かもしれないじゃないですか。「やっぱまずは普通のやつを食べるのが基本だろ!もうちょっと戦略を練る必要があるな!(口実ではない)」という結論に至ったというわけであります。


あとですね、この缶、自販機のなかにあったわけではないので、当然ながら冷たいんですが・・・・・・あの、単純な疑問としてこれって温めなきゃいけないわけですよね。しかも缶ですから。そのまま温めるわけにはいきません。一度中身を他の容器なりなんなりに移し変えて電子レンジで温めたり、あるいは鍋に入れて火にかけて温めたり、というアクションが必要になるわけですよね。当然ですよね。


でも、それじゃ、ラーメン”缶”の存在意義が問われません?


なんかそんなことをぼーっと考えてたら、それなら300円近く払ってこれ買うよりもあり合わせの野菜を刻んでインスタントラーメンの上にのっけて食べたほうがコスト安だし、ラーメン缶のアイデンティティを守る意味でも妥当なような気がしてやめました。でも、今になって少し負けたような気分になってきたのはなぜだろう。
ちぃっ、何か悔しい!!!ということで、たぶん次は買います。冷たいラーメンとしてたいらげます。


次回のレポートの方期待しててください。





追記


こいつもちょっと買ってやろうかと思った(ネタとして)。


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晴れのちコーヒー

「明日からしばらく曇りか雨」という天気予報を見て小躍りしたくなったYouです。
こんばんは。

一雨降った後に秋らしい涼しさになれば良いのですけれど。
いくらなんでもそれは希望的観測というべきものでしょうか。

さて、今日は午前中は家で勉強。
午後は今月末に紳士の国へ旅立つ先輩のお誘いでお茶飲みに行ってきました。
久々のコーヒーは美味かった。(とかいつも言っているような気がする)

注:別に高級な店ではない。


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話内容はかなり裏事情的内容を含んだ学校ネタ(院関連)が多かったです。
マンゴーとかアボガドの話は出なかった。出しちゃいけない気がした。

そういえばお土産頼むの忘れてた!!!
ストーンヘンジかピーターラビットでいいですよ>先輩


さて、そろそろ勉強再開しないとなー・・・なー・・・なー・・・ヽ(=^‥^=)ナー



追記


最近、卒論代行業者の話題がニュースになってますよね。
1文字5円とか、なんて甘美な響きなんだろう・・・。
4万字書いたら20万ですよ?やらないけど。

単純に考えたらそれだけのお金払うくらいなら自分でやった方が
良いと思うんだ。なんだかんだで思い出にもなるし。

ウンベルト・エーコが『論文作法』のなかで使っている言葉を借りるならば論文とは自分自身が「人類宛てに書いた本」にほかなりません。そんなものを一生のうちに残せる機会をもらえるのですから。
楽しんでやらないとね。

(それにしても、いまは大学によっては口頭試問なんかもついてくるだろうに。バレたら当然アウトだろうし。どう考えてもリスク高いよなぁ)

誰か、雨乞いの踊りを

5時に起きて清々しい早朝散歩を楽しんだまではいいものの、
その”達成感”のままに二度寝をきめこんでしまい先程起床したYouです。
(二度目の)おはようございます。
最近「お前は早起きだなー」とか褒められることが多いのですが・・・・・・
現実とはこんなものです。

こんな僕に言えるのは二度寝最高!ということだけ。怠け者万歳。

しばらく涼しい日が続いていたので、この調子でそろそろ秋っぽい気候になっていくのかなーとか思ってたのですが、昨日の午後くらいからまた真夏日になりましたね。
夜は風が吹くとそれなりに涼しいのですけれど日中は汗ばむ日が続いております。皆さんも熱射病にはくれぐれもお気をつけください。テレビで世界陸上を観ていたらテンションあがってきて、その勢いで100メートル走とか何本もやっちゃだめですよ!せめてハンマー投げとか砲丸なげくらいに留めておいてくださいね。(ただし、本当にやるにしても空想的にやるにしても周りに人がいないか注意して)

■最近散歩していて思うのですけれど「日傘を差して歩いている人」がやたらと多い気がしてなりません。昔からこんなに多かったっけ?やっぱり紫外線の悪影響とかが声高に叫ばれるようになったからでしょうか。

さーて、今日は1時くらいまで部屋の掃除をしようかと。
まず布団を干してみました。この角度から見ると何かの芸術作品みたいに見えないですか。
タイトル「滝」とか。すみません、嘘です。


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遡れ、OPEN。

朝の梟は猫と遊ぶ、眠る道化

こんばんは。
いま、ちょっと夕飯前に推理小説を読んでいます。
一日一冊推理小説。これが僕の生活スタイルです。(んなことやってないで善いことしろよっ!)

それにしても推理小説に出てくる探偵、もしくは探偵クラブ(らしきもの)はどうしてこう・・・事件をいかにも探偵者然として語ろうとするんだろう。いきなり出てきて「ここでクリスティの小説なら・・・するだろうね」とか。「この部屋は全く乱歩の小説に出てくる●●の部屋のようだ」とか”わかったようなこと”を言い出す。そして仲間も同様。”わかったような”顔をして頷きだす。僕は推理小説に見られるこういう妙な閉鎖的連帯感や他の小説を全くそのまま引用したモデル的倒錯志向みたいなものが苦手です。別に推理小説以外にも恩田陸の『三月は深き紅の淵を』の一場面として語られる既読書談義などね。もちろんそれは物語構造上必要不可欠なものだとはわかってはいるのですけれどね。

特に探偵に関しては異質な存在。僕らは彼らが現実と照らし合わせてみた場合「いてはいけない存在」であることを知っている(現実にも探偵なる人は存在するけれどあれとは全く別)。そもそも、いきなり出てきて、限定された材料から推理して「わかったぞ!」はないだろう。だから彼らは本質的に論理性の権化というよりもトリックスターである。いわば道化だ。罪禍を背負わされたスケープゴート的な存在だ。よく笑い話のなかに「金田一やコナンが外出しなけりゃ”事件”なんて起こらないんじゃね?」とかいう意見が出てくるけれど、この指摘も笑って看過することはできない。そもそも「そういうもの」なのだと思う。

推理作家が描き出す物語のほとんどは探偵ありきとして認識されているのだろうけれど、探偵のいる位置は僕ら読者(この場合”観察者”と言ってもよいかもしれないが)が現実とフィクショナルな物語をメタレベルでアナロジー化させて捉える際には”空洞”という角度からも確認されるべきだろう。そこに何がピッタリとはまるのか。物語構造を一転させてしまう改変的存在。そして最近の推理小説のなかには”そういう立場”(つまり周りの登場人物から探偵役として担ぎ上げられること)を斥けるようなキャラクターが流行し出しているような傾向があるのも確かだけれど。最近若者に好まれている森博嗣や西尾維新のミステリー小説に出てくる「探偵」、まあ厳密には探偵ではないのだけれど便宜上そういう言葉に置き換えておくことにする。彼らは自ら積極的に事件に介入しようとは考えないが、いつの間にか介入しなければならない状況に追いやられているような探偵的役割を集合的に付加されていながら、物語、テクスト上ではそれを否定しようとする反発的存在として描かれている点に特徴がある。

そうそう、ちょっくら余談ですが、人間は物理学的には10の24乗分の1の確率で”壁抜け”をすることが可能らしい。つまり、10の24乗回壁に向かってどんどん!と体当たりをすれば1回くらいは幽霊のようにスルッと向こう側へ移動できるということだ。理論上は。この理論を”無理なく”現実に適応させることが可能だとすれば世間的に言われている「密室トリック」なんていうものの非合理性が証明される。まぁ、ようは犯人が10の24乗分1の”幸運”か”不幸”にでも遭遇したとでも考えればいい。確率的にはこっちの方が若干低いが宝くじなんかと同じようなもんだ。あれも幸運とともに不幸がついてくる。しかし、当然のことながら、10の24乗なんて天文学もビックリな数字だ。それは単位を踏まえると生きてる間に1予(じょ)回壁に向かって体当たりすれば1回くらいは可能だろうということを意味する。(ちなみに人間一人の一生の心拍数の平均は15億回を超える。だが、10の8乗が1億であることを考えれば・・・10の24乗回、つまり1予回壁に当たり続けるという方法がどれだけ無謀な考えかがわかる)この事実を考慮するならば1967年にタンスのなかを覗き込むことによってイギリスからカナダへと跳躍した某不思議な国の作者とちょっとばかり名前が似ている少女のように”ワームホール”に遭遇する可能性に賭けた方が良いような気もする。あとは宇宙人に遭遇したとかさ。ドラえもんが出してくれるような未来の道具やらオーパーツに頼ったとかの方が信憑性があるかも。

ただ、多くの推理小説で探偵が出した”解答”がどれだけ充実した論理性を伴っているかというと、そこらへんも怪しい。推理小説内で語られる解答的事実の多くは大部分の材料をあえて捨象した上で、ごく少ない材料に読者、その多登場人物たちの目を向けさせるという戦略上において論理性や整合性という”仮想的外套”を備えることになるのといっていいのかもしれない。したがって真の論理学者などはおそらく推理小説の読者には向いてない。論理的な追究はする。しかし、最終的にはその結論をどこかに放りなげ、今まで考えてきたプロセスのみをあたかも古めいたアンティークのように飾り立ててのんびりと鑑賞できるような人には向いてるのかもしれない。


そういう意味では僕自身も少なからず”道化”なのだろう、と思う。
ドン・キホーテのような勇敢さもアルレッキーノのようなマスクと衣装も持っていないけれど。

とかいうことをぼーっと考えました。やれやれ。
まずは、とりあえず一見すると食べられなさそうで、実は食べられる夕食を作ることからはじめてみますかー。笑顔
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