2007年12月

また来年

今年も残すところあと数時間となりました。

2007年を思い返してみると、前半は忙しく後半は比較的のんびり過ごした一年だったように思います。特に2月から3月にかけての大学院受験や東京への引越し準備・作業などは何ぶん初めてのことだったので戸惑うことも多かったです。

しかし、家族の皆、大学時代の友人やゼミの皆、新しいゼミの先生や仲間、そして何よりもここに毎日のように来てくれている皆さんの励ましのおかげで新生活にも何とか馴染むことができました。感謝の気持ちで一杯です。来年も(わけのわからない言動や行動で)ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、なにやってんだーとか言わずに温かい目で見守ってもらえれば幸甚です。

さて、来年は色んな意味で忙しい年になりそうです。
何よりも”修論”ですね。これを提出しないと修了できないわけで。
自分の持っている知識を全てつぎ込むつもりで頑張りたいと思います。

死ぬ気で頑張る。
しかし、好きなことをやっているのだから、
何よりも楽しく生きることを忘れずに。
楽しさを共有できる嬉しさを忘れずに。

そんなかんじでマイペースにやっていけたらと思ってます。
それでは皆さん、良いお年を。

実家でソバを食べるため

静岡でのんびりモードのYouです。
おはようございます。

やー、実家は良いものです。 心なしか暖かい気すらします。
単純に東京の自宅の隙間風が凄いだけなのかもしれない。あそこは暖房つけてない場合は毛布に包まらないと寒さで心寂しくなるからなぁ。

昨日は大学時代の友人チェルネンコ(旧ドイツ国歌のCDを買うため”だけ”に名古屋から渋谷のミリタリーショップまで赴くほどの超東ドイツマニア)と一緒に沼津めぐりをしてきました!港湾で魚料理とか食べてきた!美味かった!彼は港につきしだい「アジのひもの」店へ直行しました。やっぱ沼津=アジという構図はなかなか崩しにくいものなのか。 そういやゼミの皆も「沼津っていったらやっぱアジだよね!」みたいなこと言ってたなー。地元民からしてみればアジはそんな重要な要素ではないような気がする。自分自身がどちらかというと山に近いあたりで育ってきたからなのかもしれませんけれど。

あ、それと、柿田川湧水周辺の探索もしてきました。

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夏には蛍でも集まりそうな雰囲気。素朴に綺麗です。

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苔のーむーすーまーで。

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チェルネンコが横で「奥のボロ屋は邪魔だ!東ドイツ風の建築物に変えるべきだ!」とか叫んでました。相変わらず危険思想の持ち主です。

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ふぃー。

で、いま朝の4時半くらいですが、課題の処理中。
1月はじめの講義までにレポートとルポルタージュと翻訳を提出しなければならないので、ぼちぼちと。のんびりやることにしましょうか。


追記

辻村深月の新刊が出てました。皆買ってやってください。
それにしてもハードカバーで上下巻とはこれいかに。二冊買ったら3000円突破するじゃないか。散財散財・・・。 そういえば月刊マガジンで『冷たい校舎のときは止まる』の連載がはじまっていましたね。いつの間にか。しかし、この小説のトリックを漫画でどのように”表現”するのだろうか。先が気になります。要チェックや。

■最近ミステリー系の原作が”力技”で映画化されたりすることが多いのがちょっとだけ気になる。乙一とか、伊坂幸太郎とか、京極夏彦とか。最近だと『魍魎のハコ』ですね。案の定、評価はかなり低いですが。そもそも「あれ」を映像化ってのが無理な話なのだと思います。けれど、「あれ」がないとこの作品のテーマが非常に見えづらくなるのも事実。原作は超お勧めなので是非読んでみてください。ただし1200ページくらいあるので多少体力勝負になると思います。

「癒し」について(1)

「癒し」の語源について調べている。

皆さんはmedicine、healing、cureの違いを知ってるだろうか。
medicineだけは何となく”医療”とか”薬”とか、そんな意味合いが強いのかなーという気がしないでもない。ではhealingとcureの違いは?これは一見する限りでは判然としない。ただし、日本でよく使われるのは前者、つまり”ヒーリング”だろう。healingとは字義的には(薬、言葉、風景)などを介した人間の身体や精神、あるいは社会関係の「調和」や「調整」などの意味を有している。だが、それだけではない。調べてみるとhealingには「覆いをかける」などといった意味なども含んでいることがわかる。その意味的本質はポジティブに捉えるならば不調和の”改善”、ネガティブに捉えるならば現行状況の”隠蔽”といった側面を潜在的に含んでいる。

一方、cureは病気のみならず自らが直面した問題の”除去”を指向している。その本質は取り除く、消し去るという点に置かれる。自分が現在置かれている外的環境を自分の利のままに加工するということにもなりうる。ただし、cureには同時に「保存」という意も含まれる。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』に「葡萄は、太陽に干して保存する(cure)とよい」と記述されているように。

藤原は人間が「癒し」を感じる場の特徴として「非人間性(ノンヒューマン)」を挙げている。そこは人間が介入しない領域であり、また、上記のような調整、隠蔽、除去、保存・・・などに関する意識的志向性が拡散する場、つまり人間の作為的要素が必要とされていないことが相互了解されている場であることが想定されうる。要はそんな厄介ごとを抱え込まずとも、その地(ground)は、それ自体で純粋な原型と比率を保ちうるのだ。機械的な対応しかできないアイボを”癒される”といって愛でる人たち精神性は、その非人間的な領域と好意的に感応しているのかもしれない。機械だけではない。生物と接するときも同じだ。けれど、一方で、いま「僕は犬と遊んでいるときが一番癒されるんだよ!」とか「こんな自然に囲まれて生活していれば癒されるね!」発言している人が本当に非人間的な領域を見据えているかは怪しいところである。神も、自然も、動物も、機械も・・・およそ、癒しに関する言説に関わるいかなる物質的、事象的要素からも人間的要素というものはなかなか取り除けるものではない。(人間によって伝承された)神、(人間の手が加えられた)自然、(人間によって愛玩された)動物、(人間によってプログラミングされた)機械。つまり僕らが抱いているのはそういった逃れられない人間的前提項を備えた視座なのだ。

ナラティブ・セラピーにおいてセラピストに問われる能力の第一条件としてソクラテスもビックリの「無知の知」が強調されている。対話をしながら相手も癒す、この一連の対応のなかで最初に求められるのは「専門性」ではなく、むしろ「非専門性」であるということを忘れてはならない。「私はあなたのことが全くわからない」、そんなゼロ地点から、彼を彼女を迎え入れる必要がある。肝心なことはセラピストの「わからない」「だから、ここから始める」という自覚とクライアントへの表象と伝達だ。そこから物語を始める必要がある。それは自己物語の拡張であり、同時に、彼、あるいは彼女の自己物語との相互交流を通じた共作でもある。上記の論点にも関わるが”わかる”とか”わかってもらえている”という意識は必ずしも人間の欠乏感のようなものを埋めてくれるものではない。むしろ”わからない”とか”わかってもらえない”・・・というよりは”わかる/わからない”や”わかってもらえている/わかってもらえない”という境界領域に自己を調整、もしくは補完してくれる何かを見出す。

僕らが癒し、とりわけ、そのポジティブな側面について考える場合には、非人間性というよりも、むしろ上の”わかる/わからない”の両義性を代表とするような境界面を見据える必要があるように思う。たとえば、親に、恋人に、友人に、動物に、自然に・・・「本当の自分を見て!」と叫んでいる人たち。(彼らが本当の意味で自己を開示しているかは別件として)彼らは必ずしも「わかってもらおう」とはしていない。それは、コミュニケーションがほとんど不可能な動物や自然を対象としたときのみならず、本当に身近な人間を前にしたときでもなおそうなのだと思う。そもそも「本当の自分」なるものは自分にすら全く意味不明な自体存在なのだから。しかし、かといって「わかってもらえない」ということを求めてもいない。少なくとも「わからない」という意思を相手から表象されることは好まない。ほとんどの人はこんなふうに思っているのではないか。「あなたではわたしの本質を見ることはできない。わたしにすらそれができないように。けれど、だからこそ目を離さないでいてほしい」他者とのコミュニケーションを通じて癒しを感受するということは、僕ら自身がそうした本質的に”(人間としては・・・個人としては・・・社会人としては・・・など、固有の役割を背景に置く視座を通じては)”見ることのできない領域”を見据えているという仮面をかぶった仮構的主体になるというプロセスを含んでいる思う。

神は、海は、猫は、木は、自分のことをわかってはくれない。
けれど、実はわかってくれているかもしれないのだ。だから、じっと見つめてくれているのかもしれない。気のないそぶりをしつつ、時には寄ってきてくれているのかもしれない。穏やかな色彩や音をたたえているのかもしれない。

そうした異和的眼差しに感応したとき僕らは越境者になる。


追記

あのコーラアップがキザっぽくなって帰ってきたらしい!(笑)
ってか、10年前になくなってたってはじめて知ったよ。今でも普通にコンビニとかで売ってるのかと思ってた。自分が買わなくなっただけで。商品画像見てちょっと気になるのがオブラートがついてなさそうなところ。あれがついてないコーラアップなんておれは認めない。

テキトー回顧録(3)

2006年8月19日。
兄と妹の競演。


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いい加減消すべきだぞ、と。

眠気、うつろう心性

連日の飲み会でそろそろ肝臓への負担がまずい具合になってきているYouです。
おはようございます。

26日と27日は旧ゼミの皆と一緒にワイワイやってましたが、
如何せん、周りは女性なので居場所を作るのに困りました。

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(↑27日はこういうところで飲み会やりました)

品川の高級マンションっすよ。33階です。ガラス張りです。レインボーブリッジ一望です。K先生のお知り合いのお医者さんの自宅なのですが・・・もう、なんていうか色々凄すぎて何度もため息をもらしました。入り口からしてシステムが全く違う。ホテルよりもホテルっぽいです。

ぼーっと外を眺めながら数分。
女性陣はとてつもなく大きなテレビを観ながら「えーっ!?オダ●●ジョーが結婚だって!!!」とか皆で騒ぎはじめます。その後も「えー!?えー!?えーっ!?」と死のリフレイン。あぁ、と思ったときには時すでに遅し。おれはこういう雰囲気がとてつもなく苦手なのだ。審級がかかってくると眠くなってくる。たぶん副作用なのだと思う。強い薬を飲んだ後の気分と同じ。

まぁ、そんなかんじではじまった飲み会でした。(後のことは省略)
お部屋を快く貸してくださったKさん、本当にありがとうございました。
お仕事忙しい時期だというのに騒がしくしてしまって申し訳ありません。

さて、続いて、飲み会三日目の昨日。
昨日はモリーと二人で飲んできました。昨日はなぜか二人共(色々な意味で)黒かった。いつものようなヒゲネタはあまり出ずに、なんだったっけな・・・そうそう、自分はSかMかっていう話で盛り上がってました。あと、カタツムリの話。後者から順を追ってお話しましょう。


-カタツムリのお話-

モリーの家では昔カタツムリを飼っていたそうです。
名前はキャサリンとジョン。(ここで反応してはいけない)
でね、ある日、キャサリンがいなくなってしまうという事件が起こります。
どこにもいない。殻だけ残して・・・キャサリンは家出してしまったのです。
あぁ、キャサリン。どこにいってしまったの、キャサリン。戸惑うモリー。

しかし数日後。
お風呂場でキャサリンは見つかったそうです。殻のないキャサリン。
キャサリーン!!!!!!

って、それキャサリンじゃないやろ。(びしっ)
絶対に普通のナメクジだと思うんだ。トムだよ、きっと。
じゃあキャサリンは一体どこにいったのか。これは謎。ミステリー。
カタツムリ密室殺人とか(殺人じゃないけれど)。

あとは脱皮してどっか行っちゃったとかね。蝶のように。
新しい殻は彼らにとっては羽根のようなものなんです。


-SかMのお話-

モリーはMです。
基本的に名字の最初がSの人はSだし、Mの人はMです。
他のイニシャルの人はどちらに近いかによって決まるシステム。さっき決めました。あと、クマのアイピロー使って癒されているところを想像したら、もうこれはMしかありえないと思った。絶対。反論は認めない。

ということで、なんか、
お互いのダークな本性が垣間見えた飲み会になりました。
ダークというかエロスというか。
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