2008年01月

ゲラゲラゲラ

今度雑誌掲載される(予定)論文のゲラが届きました。

それにしても実際に手に取ってみると結構厚い。27ページもある。よく載せてくれたな。肝心の中身のほうなのですが、卒論の後半部分をリライトしたもので正直あまり面白いものではありません。それでも抜刷が欲しい方はおっしゃってください。

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自分の名前は英語表記になると「Yu」になるわけですが、これがお湯みたいで好かん。なんか語呂悪いし。研究所の人に「You」じゃだめですか?と聞いたら「紛らわしいのでやめてください」とか言われました。「じゃあYuuは?」と尋ねたら横におられた英語教育の教授から「良いかもしれないけど、なんかエスニック風だよね」とかツッコまれました。なぜにエスニック風。

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英語も頑張って書きました。
書くたびに自分の英語力のなさを痛感して、何度も捨てたくなりましたが。


追記

本屋大賞ノミネート作品が発表されました。
このうちの半分は読了。個人的には伊坂さんの『ゴールデンスランバー』がイチオシですが、森見さんの『有頂天家族』や吉田修一の『悪人』も面白かったので上位にくいこんできそうな予感。時勢的にはドラマ化の影響もあって『鹿男あをによし』が気になるところ。桜庭さんは二作品入ってますが直木賞とったのでこっちはご遠慮願いたいところです。

でも、僕は1位には伊坂さんが来ると確信しています。
なぜなら今年はアメリカ大統領選の年だから。『ゴールデンスランバー』のテーマ性を考えると間違いなく来るはず。

たまにはゲームの話とか

ニコ動のコレが面白すぎます。
ドラクエ3とか懐かしすぎるなぁ・・・・・・。
そういや”黄金の爪”頑張って取ったよ。
死に物狂いで町についたらすぐ預けてそのままだった気がするけど。

ドラゴンクエストで思い出したんですけど、この世界での冒険における教会の重要性ってのは極めて大きいですよね。だって、セーブも、生き返らせるのも、毒の治療や呪いを解くのも、全部教会の仕事ですよ。肝心なところはこのうちセーブ以外は全部お金取られるってところです。一応”寄付”という名目にはなっていますが。仲間が皆死んで危機的状況に陥ってるときにも「○○○ゴールドの寄付を・・・」とか言ってくる神父さんは明らかに資本主義的存在ですよね。しかも、この寄付金はパーティーのレベルが高いほどに増えていく。お金持ってるほどに高い寄付金を要求されるわけです。

でも、子供たち(ここには自分自身が子供の頃も含みますが)はドラクエ世界における”教会”の記号性というか・・・特に意味の側面ですね、これをどんなふうに捉えてるんでしょうか。ドラクエの世界観や、そのなかに散在する教会は明らかにヨーロッパ的世界観やキリスト教をイメージとして取り込んでいるわけですが、子供たちの多くはこのことをよく知らないはずです。だとすれば、彼らが見て、考えて、会話のなかで発している「教会」とは一体どんな意味的側面を備えているのでしょうか。

この問題は同時にゲーム世界(とりわけRPG世界)内において描かれる「日本」のイメージ導出にも関連します。日本において毎回数十万から数百万本を売り出す、いわゆるドラクエやFFなどのメジャーなロールプレイングゲームのなかにおいてはシリーズを通して「日本をイメージとさせる町や村」は一応登場します。ただ、ここで描かれている”日本”は現代日本を彷彿とさせる記号性の大部分を、潜在化させるか、または取り除いたものであり、存在するとしてもそのほとんどが「過去の日本」を想起させるものになっている(※)。たとえば、邪馬台国とか、戦国時代の日本ような。そしてそのような”日本”は全体としては概して周縁的(marginal)な存在として描かれています。ただし、職業(侍)とか、キャラクターの概観(髪型、鎧、兜など)、武器(刀、弓)などのポイントだけ抑えてみれば、時折中心的な要素として物語構造のなかに組み込まれていることがありますが。

※自分がプレイしたRPGのなかで現代日本における社会観を比較的忠実な形で記号化=表象させているゲームは1994年に発売された「天地創造」のみです。このゲームは自分が神になって世界を創造してゆく過程をファンタジーとして構造化させたものであり、地名や人名などがほぼ実名で登場してくるのが特徴的です(僕はこのゲームで地理が好きになりました)。ただ、このゲームのなかでも日本は「日本」とは表記されておらず、確か「ネオトキオ」とかそんな名前で登場していたような気がします。この名前は某映画を彷彿とさせますが。YouTubeやニコ動でプレイ動画が公開されていると思うので気になるかたは是非見てみてください。

まあ、物語自体がロードオブザリングの影響を極めて強く受けた(ウィザードリィやD&Dなどと同様に)ファンタジーだということなので、そうした世界観にどのようにして日本的要素を同調させ組み込んでいくかが考えられたことが大きな理由だとは思います。だから、先に述べた教会のように、明らかにキリスト教的世界観を反映させた記号もどこか”こちら側”に引き寄せてきたような親和性を感じることができる。教会(らしき建物)のなかで神父(らしき人)に「○○○○ゴールドの寄付を・・・」と語りかけられる(かのように実感する)ことによって僕らはそこに日本的な社会観、宗教観、世間観とどこか結びつくような漠然とした安心感を抱くことができている、ような気もする。良いか悪いかは別にして。

そいや、余談ですが、ゲームといえばスーパーマリオ。
マリオの世界ってドラッグの世界ですよね。だってキノコとフラワーとスターですよ。大きくなって、火噴いて、無敵になるんですよ。そんでもって、悪者クッパ(怪物、自己、イド)をぶったおして、ピーチ姫を助け出すんです。姫さまってなんなんでしょうね。超自我でしょうか、それとも死後の世界で真の自由を獲得した自分でしょうか。少年犯罪とかの話になるといつもバイオハザードとかあっち系のゲームが取沙汰されますけど、僕はマリオなんかにも恐い部分はあると思う。人間の無意識や象徴的世界観に与える影響が大きいように思います。


追記

実家から食べ物が届いた!!!
ミカン、リンゴ、お米、海苔など。嬉しすぎる。

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これであと一週間は生き延びることができそうです。
ありがとう、母。ありがとう、おばあちゃん。

百歳チャンポン

最近リンガーハットの「霜降り白菜ちゃんぽん」にはまってるYouです。こんばんは。

長崎人としてはちゃんぽんの味自体には結構不満あったりしますが(コクが足りん!とか)白菜ちゃんぽんはなかなか美味い。そして嬉しいのはリーズナブルな上に野菜がめちゃめちゃ乗ってるってことですね。”霜降り”と銘打ってるだけあって白菜も甘味があってめちゃんまい。

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見てくださいよ、この野菜の量。
万年野菜不足のフリーター院生にとっては嬉しい限りじゃないですか。え?自分で作った方が安上がりじゃないかって?

はっはっは・・・

勉強とバイトでそんな暇ないんです(と言っておく)。

さて、余談はこれくらいにしておいて、と。
今日は日中は友達の買い物の付き合いで新宿まで行ってきました。しかし相変わらず人多いねー新宿。僕は新宿とか、渋谷とか、池袋とか、ああいう人が多いところに行くとつい眠りたくなる人なので、真っ直ぐ歩くのが大変でした。歩道とかゾロゾロゾロゾロと・・・ありえない。無理やり切り取ってポップアートにしてやりたくなります。

服とか、食べ物とかちょこちょこっと買って終了。
その後は資料集めに国会図書館まで行ってきましたとさ。
で、帰ってきてから、ちょっとだけバイトに行って、ブログ書いて、今に至ります。

・・・って、あれ?もしかして余談の方が長い?
まーまー、今日は癒しの方で長文頑張ってしまったのでこれくらいで。今、ラカンの入門書読んでるんです。ラカンおもろいなー。対象aが√5-1/2とか凄くおもろい。高校時代に読んでたら数学好きになってたかも。

ではまたー。

癒しについて(2)

「癒し」に関する言説の関係場についてまとめている。
先日、この日記で癒しに関する原義的な意味について少しばかりまとめたが、それが含意するところは非常に多様である。ただ、一番の問題となるのは現代日本人がこれを”言葉として発するとき”、つまり日常会話の最中に「○○って”癒されるよねー”」と使ったときにそれが暗黙的に何を示唆しているか・・・という点だ。友人らに話を聞いてみると以下のような点に癒しを感じるという。

①自然性(写真などの媒体も含む)
②音楽性(リラクゼーションミュージックなど)
③宗教性、神性、スピリチュアリティ
③故郷に帰る、子供の頃を思い出すときの郷愁感
④親しい家族、友人、恋人などとの会話
⑤(可愛らしい)子供やキャラクターとのふれあい

一見する限りではどれももっともらしいように思える。
①から③は感覚に拠るところが大きい。自然はやはり単純に見るだけではなく、音(たとえば滝の流れる音や木々のざわめきなど)を聴く、手に取って触れたりすることも重要な要素であるように思う。ここで一つ考えなければならないことは自然と接しているときの「時間感覚」だ。介護のアルバイトをやっているときにも気づくことだが、子供たち、そしておそらく僕らもだが、一定の反復行動から得られる連続的な刺激から心地よさを感じることは多い。たとえば、海で、何気なく砂を掴みとって”サラサラ(※)”と落としていく。何度も何度も、サラサラと。こうした行為が心を落ち着ける(この”心を落ち着ける”という感覚が”癒し”の発話言説に結びつくかどうかはまだ未定)。

※この”サラサラ”は純粋に聴覚情報から得た音というよりも、むしろそうした情報に文字にして二次的に表現した媒体から得て蓄積させてきたものであると考えた方が良いと思う。つまり、その音は個別的かつ純粋な聴覚情報の表記としては”パラパラ”でも”ポロポロ”でも”サラリサラリ”・・・などの多様な可能性を持っている。ただ、着目すべきは、人々がこのうちの”サラサラ”という聴覚情報=触覚情報(共感覚情報)→文字情報を共有しており、いざ「砂を落とすときの音は?」と”問われたとき”にどの情報を優先的に想起的に取り出すか、という内的なプロセスである。宮沢賢治作品のような擬音語、擬態語が多用されている小説を読んでいるときに皆が感じるような、幻想的、郷愁的、癒し的な感覚は、過去に経験した共感覚情報との想起的接続と、文字媒体として対象化したときに覚える違和感を内に含んだ親和性/異和性と関連しているようにも思う。

つまり僕らは内的時間としては”ゆっくりとした時間の流れ”に癒し的要素を見出す。これは現代資本主義的世界とは切り離せない慌しい時間感覚(携帯片手にいつでも他者とのコミュニケーションを行わなければならないという強迫観念を潜在的に抱いているような)に反作用する。というよりも、(ここでベルクソンの持続や西田の純粋経験などに関する時間論については触れないが)そうした時間の流れを感じさせてくれるような環境条件を好むというべきであろうか。前述のような「海辺で砂をサラサラと落とし続ける行為」の前提となる海(波の音)や砂(風にさらわれる音、風紋)や太陽(熱、光)などの自然環境は僕らに”ゆっくりとした時間の流れ”を感じさせてくれるような条件を提示してくれているともいえるが、同時に、僕らはこうした行為を行うことを通じて環境そのものに内属することを強く自覚してそれを構成する主体となっていることを自覚する。

ただ、注意しなければならないことは、この”ゆっくりした時間の流れ”を感得することに癒しを感じると主張する人がいたとしても、これを回復や治癒、つまり一般的に言われるところのhealingなどの意味としては必ずしも捉えられないかもしれない可能性を考慮しておく必要があるということだ。”癒し”という言葉を聞くと大部分の人々は「何らかの欠乏感」のようなものと「それを埋める回復的要素」を対置させて考えようとする。たとえば、上記の時間感覚の例で言うならば「自然環境に身を置く”ゆっくりとした時間感覚”」と「資本主義的世界内における”慌しい時間感覚”」がそれである。だから、コミュニケーション過多、時間の過剰分節化を余儀なくされた現代人はこれを回復させるためにサラサラと砂を落とし続けるような環境条件内の時間感覚に身を浸している・・・と”思い込む”。

これはあくまでも現状における僕の主観的見解(仮説)だが、現代的癒しとはその多くが「過剰」、あるいは剰余的生産物とかノイズのような一面を備える。現代人、とりわけ現代における日本人の言説内における、特に感覚情報から得られゆく「癒し」はその感得段階(つまりオーディエンスとして自然を”見たり”、音楽を”聴いたり”して、”自分は、いま、癒されている”という漠然とした感覚を抱いたときなど)においても、必ずしも自分を苛んでいる欠乏感、不足感、孤独感などを埋め立てるものとは限らない、と考えることは可能である。その理由として、僕らは(たとえば受験に合格したり、企業に内定をもらったり、結婚したり、子供が生まれたり・・・といった、そんな幸せ溢れるような状況、これ以上なく喜びを感じ、欠乏感など何一つ覚えてないような状況においても、たとえば滝の前に立てば、ヒーリングミュージックを聴けば、「自分は、いま、癒されている」という感覚を得ることが可能だからである。

一方、この事実は当然以下のように考えることも可能だろう。
つまり、自分はいまこれ以上なく幸福感を感じており、欠乏感など何一つ抱いていないと”思い込んでいるだけだ”と。そもそも、幸せとか、喜びというのは刹那的なものだ。これは別にあえてニーチェばりのペシミスティックな言い回しを選んでいるというわけではなく、事実としてそうなのであり、この事実を見据えているからこそ人々は死を見据えながらもなお充実した人生を歩むことができる。たとえば、所帯を持つことは大きな幸せであると共に、同時に一つの大きな不安要素を現出させる。この不安要素が現実的に目前に現れてきていない段階にあるとしても、人々はこの可能態を無意識のうちに考慮しながら進み続ける。いま、自分は満ち足りていると思っていても、根幹にある欠乏感や不安感を完全に消し去ることはできない。これを一時的に補完してくれると”思わせてくれる”ものが癒しに関連するものや事象であるように思う。

だが、周知のように、そうしたことを”思わせてくれる”ことが予想される可能的事物や事象はあまりに多い。というよりも、一番最初に列挙した①から⑥までのものを代表として主観的には”どんなものでも”自らの欠乏感を埋め立ててくれるような補完物なりうる可能性を備えていると考えるのが妥当だろう。したがって、前述したように、癒しとはある意味で過剰であり、ノイズでもある。人々が”癒される”という言説を文脈上で使用したとき、その多くは受動的立場を堅持している。つまり彼らの大部分は、多くの状況においてそれを「選べない」、いや「選ぼうとしなくなる」のだ。仮に何らかの媒体を選んだとしても、それはやはり一元的なものではなく、全く意図しない過剰なものを周縁的に取り込んだ上で効果を発する。そして、過剰やノイズへの喰いつきは、そもそもの自分の欠乏感を対象化して鮮明化させる意識を失わせることにも繋がる。人々はそこに安住しようと試みているようにも思う。

かなり脱線してしまった。長くなってしまったので今回はこのへんで。次回は上の④から⑥に関連する論点について取り扱う予定。また箱庭療法という実例を取り上げながら、人間のフレーム化された(制度化された)媒体内において「(象徴的な)物を配置する」という創作活動を通じた無意識の表象・確認を通じた癒しの感得プロセスについて考えてみたいと思う(ここで論じられている癒しとは”治療”の意味に近い)。一番重要になってくると思われる②や③に関してはその次あたりに。

仰げば、初雪

またしても天気予報で「雪」とか。

この前、雪見酒の用意をしていたら”全く降らなかった”ので、
今回は騙されねぇ思っていたら・・・・・・


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なんか吹雪いてますが。


信じるって大切だよね!!!
初雪を祝して雪見酒は無理だけど雪見コーヒー飲もう。


追記

都心でも雪、関東は昼前後がピーク。
ちょうど昼くらいから介護のバイトがあるわけですが。もし積もって自転車使えなくなったらあそこまで徒歩で行けということなのでしょうか。防寒しっかりしないと凍死してしまう。
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