2008年03月

折り紙、ヤキソバ、フライパン

今日は介護バイト。
今期の水曜日ラストでした。

今週はいつも担当していたS君がお休み!(なんと海外旅行らしい!)
で、もう一人のS君を担当させていただきました。今日は最後の活動、そして子供たちと指導員さんのほとんどが入れ替えになるということも考慮して記念ということもあって近くのケーキ屋まで食べに行くことになりました。

いつも創作活動ばかり見ていたので、外移動の難しさを痛感。
金曜日担当している子供たち(中学生、高校生)は、症状にもよりますが、ある程度落ち着きはあるのですけれど、水曜日の子供たちは小学生が多いせいか走り回るのが大好き。

最初に「さぁ、今からケーキ食べにいくぞー」と言ってしまったのがまずかった・・・。場所を既に知ってるからなのか、S君は全力ダッシュ。 速い速い。ついてはいけますが、ゆっくり歩いてたと思ったら突然勢いよく道路側へ走り始めるので大変です。万が一に備えて、絶対に道路へ飛び出さないようにと身体を道路と歩道の間に割り込ませるのですが、それでもスルっと抜けていってしまう(フェイント!?)技を持ってるので、これを止めるのが一苦労。たった10分程度の道程だというのに・・・一時も油断できないという(苦笑)

着いたら着いたで大暴れ。
グレープフルーツジュースとショートケーキを注文してあげたのですが、ちょっとだけ食べたら、周りの子供たちにちょっかい出したり、大声を出してみたりと大変でした。窓際の端の席だったのですが、目を離すと席を飛び出してカウンターや他のお客さんの席の方へ突然走り出そうとしてしまうので、彼の椅子の横に空気椅子のように腰を下ろして徹底的にガードしながら移動制限(肩を掴んだり、手首を握ったりして、無理に「ここにいないとダメだよ!」という意思を強く示しすぎると、物凄く不機嫌になってしまうのです。ですから、出来る限り自然にさりげなく)。

S君は口癖みたいなものがあって、頻繁に、
「折り紙!」と言って不特定の場所を指差してくるのです。
ヴァリエーションがあります。ただ、大体は「折り紙!」か「ヤキソバ!」か「フライパン!」。これは特に「今折り紙(もしくはヤキソバやフライパン)が欲しい!」ということを意図しているわけではなく、彼が望むのはその言葉を聞いたときの指導員の反応です。

※ちなみに、なぜ折り紙、ヤキソバ、フライパンなのかは謎です。
単に好きなのか、絵本などで読んで印象に残っているのか、もしくはお母さんと接する時間を思い出して嬉しくなっているのか。後者が一番大きな理由かもしれないですね。 最近は”鍵”が大好きみたいで、毎週のように「かぎ!」と一言言って画用紙とペンを持ってきては鍵の絵を描いて欲しいという意思を示してきます。実のところ”鍵”は確か精神分析学的には凄く重要な象徴記号になりうるのですが、このあたりは長くなるのでまた今度の話にします。

そんなとき「え?折り紙欲しいの?」とそのままの形で返してしまうと、無表情になって特に反応を示さずどこかへ走っていってしまいます。S君が期待してるのは「折り紙?今はないよー」とか「ヤキソバなんてないよー」とか・・・つまり「ないよー」という言葉と「どうしよう」とか「しょうがないなぁ」とかそんな感情が入り混じったような表情なんですね。つまり”ない”ものを”ある”といって指導員さんを困惑させるのが大好きなんです。困ったことに(笑)。

そんなときは、たとえその意図がわかってたとしても、戸惑った顔をして「え?どこどこ?・・・ないよー!」と言ってあげると全身を使って(両手を大きく振りながら)喜びます。ケーキ屋の店内でも、どうにか暴れないようにこのやり取りを出来るだけ長引かせるようにして間を持たせていたかんじです。でも、人が多くなりすぎるとやはり無理がある。外出の大変さというものがよくわかりました。半年間学んできたとはいえ、まだまだ勉強が必要なようです。こればかりはコミュニケーションを通じた経験で埋めていくしかないわけですからねー。

帰りは大分疲れてたみたいで、走り出すことはありませんでした。
という今期水曜日の最後の活動。色々課題が見つかったのも収穫です。
来期からは担当する子供も指導員メンバーも新しくなりますが、まぁ、いつも通りマイペースに頑張っていきたいと思います!



追記

途中、ブレンドに砂糖を4個も入れてくれまして、甘々でした・・・。元々ブラックが好きなので甘すぎて死ぬかと思ったわ! ちょっとだけ飲んでみましたが生シロップ飲んでるみたいだった!
あー喉がぁー、と上司に気づかれないように唸ってた。

大和魂たち

昨日は同志春音と一緒に上野公園に行ってきました。
桜が咲いてるか咲いてないか、微妙なラインでしたが・・・・・・

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さすがは春を呼ぶ娘。GJ。

桜綺麗すぎです。
不忍池あたりには屋台も出てました。
ジャガバターがかなり美味そうだったけど我慢しました。



追記

■資料集め+古本屋巡りもしてきました。
高円寺駅近くにある都丸書房がかなり良いです。値段は全体的にはまぁまぁ。ただ、この日はクリステヴァの『恐怖の権力』が1500円くらいで売ってた。これはかなり安い。即購入。『<おとな>の発見』が300円。これもなかなか。即購入。・・・ということで、安いものが結構ありました。社会科学系の本に力を入れてるっぽいのは嬉しいかぎり。また行こう。

案の定、バッグが重くなりすぎてツッコまれましたが。
まーしょうがない。『恐怖の権力』と『<おとな>の発見』によって純粋無垢なバッグは欲望渦巻く凶器へと変貌してしまったわけです。家を出るときには羽のように軽かったバッグが、いつの間にか岩のような重さになっているのは僕のライフスタイル。

世界が変わったのか、自分が変わったのか。はてさて。

アルファベット、回転

ドルを買うよりも、BIGを買う。
夢追い人のYouです。こんばんは。

今日はいつもの介護バイト出勤でした。
実は今日は今期メンバーのラスト。卒業シーズンですから、致し方ないとはいえ、やはり約半年間慣れ親しんだ子供たちと別れるのは寂しいものです。最初はどうなることやらと思いましたが、思い返してみればあっという間の半年間でした。4月からは新メンバーと一緒に頑張ります。現指導員さんに聞いてみたところ、指導員、補助指導員、知的障害の子供さんたちも含め、ほとんど総とっかえ状態になるそうで、僕のように二期連続で継続して続ける人は今回は少ないそうです。「貴重な経験者として色々とアドバイスしてあげてください」とか言われました。けれど、一体何をアドバイスしたらいいものやら。経験もなにもワーワー言いながら遊んでただけのような気が。

ちなみに今日はコマ作りでした。
やっぱり子供と一緒にコマ回してワーワー騒いでただけでした。
やれやれ。どうしたものか。

バイト後、ちょっとだけ大学に寄って成績表を取りに行く。
正直あまり必要ないものですが、一応、念のため。結果によっては今後のフリーター生活に何らかの変化が現れるかもしれませんからね。研究課のKさんから受け取って気合一発開いてみるも特に面白い点はない。面白くない。面白くないのは悲劇だ。考えれば考えるほど、この日本の大学の成績表というものは本当にカオスである。Aとか、Bとか、Cとか、でなんかいきなりIとかに飛んでたり。突然Sが出てきたり。学部時代に突然現れたS。教務課の方に「何のSなんですか?」と聞いたら「スーパーのSです」と言われる。きっと全部Sを取った人はスーパーマンにでもなって空を飛ぼうとするのでしょう。しかし、彼らはすぐに気づく。さぁ、飛ぼう、と見上げた空は既に電線と電波の網の目。そのとき、彼らは、自身が予期せぬカラーリング(青とか、赤とか、黄とか、白とか・・・)をほどこされたカラスであったことを知る。電線は揺れる。電気も通っている。地震も雷も苦手なスーパーカラスは、しかし、それでもなお羽休めを望んでいるのである。

そういえば、意見書みたいなのを書いてくださいと言われたので、とりあえず「前期の間に基礎文献講読のような講義を一つ入れておいたほうがいいのでは」と提案しておきました。具体的にはハーバーマスやゴフマンなどです。もしくはデュルケムなどの社会学古典講読。一年間、大学院の講義を受けてみて、また修論発表会を聴いていて最初に思ったのがそのことでした。理論でガチガチに固める必要はないと思いますが、やはり基礎文献、もしくは柱となる基礎理論を院メンバーが理解しているという”了解”があれば後々の講義やゼミの議論も発展しやすいと思うので。個々の経験や視点を生かすことは最もであり、僕自身とても参考にさせていただきましたが、授業全体を見たときに少し散らばりすぎていて、議論が噛みあわないところがあるのが気になりました。考え方、思想が散らばる、というのは悪くない、むしろ良いことだと思いますが、それも一定の方向性=土台(基礎)ありきだと考えます。特に発表、議論の間。その点は僕自身も常に注意して勉強していきたいと思う。

さーて、明日は特に予定無し!自宅に引き篭もる予定です!


追記

■レッドソックスの開幕戦が日本で行われるらしい。
そういやマリナーズやヤンキースも来ましたね。メジャーの開幕戦だというのに、なぜ日本でやるのか。考えられる理由は一つ(正確に言えば二つ)だろうけれど納得できません。

テキトー回顧録(5)

昔の携帯カメラで撮ったので画質悪いです。

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実家(長崎)の庭です。かなり広いです。
どれくらいかというと野球ができるくらい。
ちなみに岩がベースです。

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昔話題になった雲仙普賢岳。
一時期はこっちにも灰が舞っていました。

死のエスプレッソ

先日のことになりますが、ゼミ生皆で飲み会をやりました。

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今期修了のSさん、受賞されたSさん、本当におめでとうございます。
沖縄料理、美味しかったです!!!

修論発表では興味深い点が幾つかありました。
Mさんが発表のなかで指摘されていたオンラインゲームプレイヤーの四類型のなかに「killer」というものがありました。つまり、敵キャラクター、他のプレイヤー、他の事物を破壊することを楽しむプレイヤーの傾向性。ここで思い出したのが、最近読んだ記事のなかに掲載されていた「最近のオンラインプレイヤーはゲーム世界のなかで”死にたいという願望”を持っている」というものです。つまり能動的に何らかの対象を破壊したいという感情のみならず、それら対象から逆に破壊されたいという感情がそこに潜在的に働いている・・・ということになる。これは何を意味しているのか。

僕らは、純粋な個人としては死を経験しません。
自分が死んでしまったとする。けれど、そのとき、自分が”死んでしまった”ことを確認するのは、その瞬間、寄り添ってくれていた”誰か”です。自分ではない。自分の意識が途切れてしまったとき。自分は、自分が終わったのか、世界の方が終わったのか、それすら知らずに「消えてなくなる」わけです。だから人間はおそらく”死”という意味不明なものよりも”死にゆく”というプロセス(生きている、しかし死にゆきつつあるという生と死の断続的な差異。その際生まれる痛みや苦しみ。独りきりで消えていかなければならないという孤独感。)を恐怖することになります。”死”、つまり名詞形としての死は肯定的に迎え入れられることがある。ギロチンの使用、安楽死のための薬物投与、自殺・・・など、これらは生と死の差異の連続のうちに徐々に”死にゆくこと”を否定し、この瞬間に限りなく純粋な”死”をもたらされることが期待されます。

一部のオンラインゲームユーザーはゲーム世界内に位置づけられているプレイヤーに自己を投射することによって、現実の世界内において個人意識からは決して捉えられることがないであろう、それ自体としての”死”を擬似的な場で仮説的に確認したいのではないかと思う。現実世界における他者の死、他者によって確認された事後的な自己の死(未来に残るであろう痕跡。たとえば墓標)を介してではなく、仮想世界におけるキャラクターとの擬似的な同一性が確保されている状態で。もっと、限りなく、この瞬間に、無媒介な状態で、という願望。このとき自分=プレイヤーに死が与えられる瞬間を(他ならぬ自分自身に与えられるかたちで)可視化したいという願望がここに凝縮されているのではないか、という気がしないでもない。とするなら、記事に書かれている「死にたい、破壊されたいという願望」「(自分=プレイヤー=キャラクターが)死を与えられる瞬間を見たいという願望」としても理解できるかもしれない。

あぁ・・・なんか眠くなってきたのでコーヒー買ってこよう。
そういえば、今日友達に会いに新宿に行ったのですが、駅近くのエクセルシオールで頼んだエスプレッソが異常に苦くてまいりました。いや、エスプレッソは苦いものだってわかってはいたのですが、それでなくても苦かった。なぜだろう。昼に食べたランチに入ってた何かが苦さを倍増させたのか。逆ミラクルフルーツ的成分が含まれていたとか。

あ、でも、それだったら辛くなきゃダメか。うーむ。


追記

■久々に桑田の投球を見たけれど、かなり悪い。
変化球が高目に集まってるときは調子の悪い証拠。勝ったらしいけど安心はできません。

■小川洋子さんの『薬指の標本』を読んだ。なかなか面白かった。
文体がどことなく村上春樹っぽい。薬指が欠けたときの「もしかしたらそのことは、わたしが考えること以上に重大なことだったかもしれない」(p.12)とかそのあたりの表現もどこか似てる。
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