2008年04月

カワイイとはなんぞや

先週から指導教官であるW先生のTA(ティーチング・アシスト)を勤めさせてもらっているのですが、講義の履修学生数がハンパないです。

600人?いえいえ、下手するともっといます。
危険です。出席表整理するだけでも数時間かかる。また、W先生は毎回授業の最後に小レポート課題を出されるようでその解答欄も少しだけチェックしてました。今回の課題は「普段使っている”可愛い”の意味とは何か」とか、そういうものだったのですが、本来的な意味として用いている人はごくわずか。可愛いの意味なんてほとんど同語反復になっちゃってるわけですね。可愛いってのはカワイイってこと!みたいなふうに。

K・ローレンツが提唱した理論のなかに「幼児図式」というものがあります。彼は人間が特に哺乳動物を見たときに「可愛い!」と思わせるような、そのときの視覚的刺激に注目して、その特徴をいくつかに分けて説明している。

1.身体と比べて大きな頭
2.前にでっぱった額をともなう高い上頭部
3.顔の中央よりやや下に位置する大きな眼
4.短くて太い四肢
5.全体に丸みのある体型
6.柔らかい体表面
7.丸みをもつ豊頬


さて、現代的な日本人が用いる「カワイイ」のなかにはこれらのうちのどの要素が含まれるれるでしょうか。まぁ、文化的価値観の違いもありますし、人間(男性か女性か大人か子供か)を対象にするか、他の動物を対象にするかで変わってくるとは思いますが・・・3、5、6、7あたりは引っ掛かってくるところでしょうか。でも、この図式をそのまま適応させるとすれば、最近「カワイクない!」との批判とともに世間を賑わしている例のマスコットキャラクターの評価も改めなければならないでしょう。いずれにしてもあの角だけは明らかに可愛さとは無縁の武器だと思います。

そういえば最近ロボットセラピーって流行ってるじゃないですか。
パロとかならわからないことはないのです。ですが、一方で「Muu Socia」というロボットがあってですね、この一見すると京極夏彦の小説にでも出てきそうな一つ目オバケのようなロボットが相当な癒し効果、可愛さ、愛着をもたらすみたいなんですね。なんでも上記の幼児図式にピタリと当てはまる部分が多いのだとか。

僕らゲーム世代にとっては”この手の一つ目”は鬼門なわけです。
少しでも油断すると金縛りにあったり、何か降って来るんじゃないかと必要以上に身構えます。んでもキモカワイイとかこういうのから派生したのかもですね。つまり現代的な若者が考えるような「カワイさ」と本質に忠実な形態学的に最適な「可愛さ」との差異が”気持ち悪さ”として感覚されるのかもとか。単なる推測です。

はじまりの水、回帰

今日は今期初回の介護バイトでした。
水曜日、担当する子供は3人。指導員さんは4人。
人数的には前期に比べれば若干の余裕があります。

まず、子供たちの性格、癖などを示したプリントを上司(20歳!若すぎる!)から手渡されました。見ると、3人ともほぼ言葉は喋れず、オムツなどは1人が部分介助で他の2人は全介助(※例えばトイレのときズボンを下げたりすることから無理なので完全なサポートが必要)とのこと。ふむふむ。

あと「特徴欄」に気になる記述が一つ。
S君のところの「すばしっこい。突然走り出す癖がある」っていうところはわかるのですが、K君のところに「液体」と一言。液体?何すか?気になったので上司のところに聞きに行く。

「すいません。この、液体って??」

「ああ、それですね。K君は、水、お茶、自分の唾液など、液体系のものに凄く興味を示すんです。注意してください」

注意してくださいと言われましても。
最初は”音”に興味があるのかな、と思いました。子供たちの多くは音楽やリズムを好みますし、今まで僕が担当した子のなかにも水道水、もうちょっと具体的に言うなら「水道水が流れる音」などに興味を示す人もいましたから。その興味がもうちょっと広範な方向にいってしまうのかなーと。 で、実際に今日接してみてわかったこと。 まず、なるほど、と思う。水などへの執着の度合いが今までの子供たちとは比べものになりません。見るに、K君はそれらが発する音に興味を持っているわけではない。いや、興味はあるんでしょうけれど、それが一番というわけではないように思いました。彼は「耳を傾ける」のではなく「触りに行く」・・・というより、むしろ、僕が見る限りでは「そのなかに入り込もうする」感があります。

つまり、水桶、流し場、トイレの便器、諸々の場所にたまっている水のなかに全身を(指先とか、手の一部だけじゃない。顔、胸、足など本当に身体全体)を入れようとしたがる傾向がある。その勢いたるやハンパじゃありません。それまでボーっとしている様子でも、水場を発見するとこう「(グワッ!!!)」という音が聴こえそうなくらいの凄いパワーで接近します。僕が今日一日接した経験を通じて考えて見るに、彼が求めているものは水そのものっていうよりも水が閉じ込められている”場”のように思う。その中に彼自身の全身を入り込ませたがっているように見える。

当然のことながら”場”は必ずしも彼の身体よりも大きいわけではないわけです。水瓶、ペットボトル、水道の蛇口、そして自分の口のなかにまで、自分よりもずっと小さな場に身体を入り込ませようとする。ちょっとだけコレを彷彿とさせます。なんにせよ、たとえばお茶が入っているペットボトルのなかに手を突っ込もうとする行為や、あまりにも汚い水を用いるような行為は何とかして止めなければなりません。けれど、あまりに強引に止めてしまうと、それはそれで問題になります。K君に関してはこのあたりが今後の問題でしょうか。

でも、一日接してみて注意書きの意味がよくわかりました。
今年は(経験者と言うことで?)給料や活動時間などもアップするので色々と頑張りたいと思います。まぁ、まずは子供たちをしっかり見て、その性格や癖などを自分の目で確かめることが重要になるかと。

頑張っていこう~っ。


追記


■最近何かとお騒がせの聖火リレー。
昨日の朝日新聞(4月9日の朝刊)を読んでいたらパリでの聖火リレーの”態勢”が図式的に書いてあった。凄いですよコレ。何が凄いって周りを取り囲む人や物の数が。走っている人を中心にすると・・・

警備車両48台(両側)
警官100人(両側)
消防士100人(両側)
バイク60台あまり(両側と後方)

らしい。 意図するところはわかりますが、走者は鬱陶しくて走れたもんじゃないような気もする。

本屋大賞決定。
伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』。やはりか。
個人的に伊坂作品のなかでもベスト5には入ります。是非一読を。


ビバ広島

4月1日の中国新聞より。


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中国新聞、気合入りすぎです。

読売新聞も見習って欲しい・・・。
全国紙だから無理だろうけれど。

でも、日本人っぽいのが一人もいないのはなぜか。
一瞬メジャーのカーディナルスの応援してるのかと思ったよ。


追記

明日は健康診断らしいです。
非常に面倒なのですが、書類で必要になるかもしれないので一応やってきます。

献体、身体の送信

最近「献体希望者が増えている」というニュースを観た。

<献体>

医学および歯学の発展のため、また、力量の高い医師・歯科医師を社会へ送りだすために、死後に自分の肉体(遺体)を解剖学の実習用教材となる事を約し、遺族が故人の意思に沿って医学部・歯学部の解剖学教室などに提供すること。

つまり、献体とは文字通り考えるならば「身体(もしくは肉体)を献ずること」ということになる。ここで考えてみたいことが2つあります。僕らはその”献ぜられる身体(もしくは肉体)”をどのようなものとして捉え、同時にこれを”何へ”と渡すのか、ということです。献体へと差し出される身体とは、当然のことながら「解剖学的対象となる身体」に他なりません。恐い表現をしてしまうと、それはバラバラにされる可能性があるもの。今、僕らが感じているような統合性を備えた有機的な身体ではなく、諸器官があたかもパソコンのパーツのように見られる、そんなまなざしを受けうる可能性のある無機的な身体として対象化される可能性が予示されているというわけです。これはある種、近代的なパースペクティブ(身体をまるで、ここに心臓があり、ここに脳があり、ここに肺があり・・・おそらくこれらの諸部分が取り出されて何らかのかたちで使用される”だろう”という意識と視座)を内面化させているともいえる。

そして、そのとき僕らのを拘束するのは線的(リニアー)な時間的意識です。身体は生み出され、そしていつか腐敗する。つまり身体的死が未来におけるある時点においてもたらされる、と想定することは、これを時間の流れのある一定の場所に位置づけようとする意識が働いているともいえます。入念に自分の身体、そしていずれ訪れるであろう死についての内観というプロセスを経験した献体希望者は、特定の、つまりこの場合死が訪れるとき、献体が許容される時が訪れたときに、自分の身体がどのようなまなざしを受けうるかということを想定する。そして、これが今自分が当たり前のように自分の身体を対象化しているこの意識とどのように異なるのかということを少なからず考える。人は今自分が当たり前のものとして考えている身体の生命感、有機的統一感からは逃れられない。未来のある時点における「被解体的身体」もやはり現在の所与的生命感を有した視座の束縛からは逃れられません。

また「何へ」もしくは「誰へ」という自らの身体を譲り渡すことになるであろう「対象」について考えた場合。僕らはその目的語が「何に」もしくは「誰に」なるのかは、もちろん厳密にはわからないわけです。「まー、たぶん医者の卵か、それに近い誰かになるんだろうなー」とかは色々推測することはできるでしょうし、約束することもできるでしょうが、ただしそれはあくまでも事前的なもので、自らの身体が解剖学的対象となるのは死というあの現象を経験した後のことですから。現時点での完全な対象化は不可能となります。書面などである程度規定することはできますが、それはあくまで規定であり、確実にそうなるか確かめる術はありません。つまり身体は物理的な意味(つまり、死後、解剖を施される身体)では何かわからないもの(X)に委譲されるということになる。

何かわからないもの、とは権力性を備える。
さて、僕らは「身体を献ずる」とか「(後世のため)解剖学的対象にされる)」という意思を示すことができるとはいえ、肝心の「身体がいかなる過程をもって献ぜられるか、そして解剖されるのか」という過程を本当の意味では知らない。脳がどこにあるか、心臓がどこにあるか、これは単純な知識になっているけれど「○○という器官が本当にそこにあるか証明できるか」と誰かに問われたとき、それを証明できるのは高度な技術と知識を持つ一握りの専門家だけです。したがって、僕らが「(身体のここには心臓があって、ここには脳があって・・・)」と漠然と考えている、その確信はそのごく少人数の専門家や彼らが出版する本の説明(主として視覚に訴えるような図像的説明)のパースペクティブに乗じることによって果たされているということになります。ただ、それは上にも書いたように、そうした認識は、自分の身体は本当のところはどうかわからない(科学的、医学的には”○○だ”と言われているけど、実際のところはどうかわからない)けど、とにもかくにも一つの統一感みたいなものを備えている有機的な何かだ、という意識との葛藤(弁証法)のなかで成立しているともいえます。

おそらく死後”痕跡”となってしまった自分の身体、譲渡される被解剖学的身体を想像する限りにおいてもやはりそう。それは、おそらく「生命が失われた物」ではありますが、その現象(死後、自分の身体が解剖学的身体として、一人もしくは多数の医学的専門家によってまなざされている状況)想像している、このときの自分の身体(生命そのもの)を基点にして、つまり”ここ”(=身体の統合感を備えた生の意識)から感性、思惟、を通じて創出されている限りにおいては、やはり現状の暗黙的な生命感を前提としながら生み出されているということになります。心と身体が浮遊する時代だと言われる。僕らはこんなときこそ、心、身体、心=身体、そして生命に、現時点ではなく、ある不特定の時間に”送信”(”献体”という言説がまさにその一部を示しているように思うけれど)されうる、これらの要素に立ち臨む姿勢を身につけなければならないように思う。でなければ、僕らは、心に、身体に、生命に、そしてこれらに関連する権力に逆に喰らいつかれる危険性を拭い去れないような、そんな恐怖感を覚えてならない。

というような雑感。

新バイト始動

今日から大学内の学習支援センターのバイトが始まりました。
仕事内容は・・・・・・

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↑これを置いた席に座って待機。
勉強その他「相談に乗ってください!」という学生がきたら色々と助言してあげるというものです。ただし、昨年は相談に来る人が少なかったらしく先輩方曰く「座っているのが仕事のようなものだ」ということ。で、その肝心の座っている間(つまり仕事中)は、本読んでても、PCいじってても、音楽聴いてても良いらしいのです。なんていうアルバイトでしょうか。まさに来世はナマケモノになることが決定している僕のためにあるようなバイトと言わざるを得ません。

さて、初日。
17:00-20:00で入ったのですが・・・

超暇でした。

暇で暇でもうどうしようかと。
相談しに来る学生どころか部屋に入ってきた人がたったの「2名」ですよ。
俗世から隔離された聖域ですか、ここは。

途中「はい、お菓子食べていいですよ~」とセンター員さん。
ちょっ、それ相談しに来る学生さん用じゃないんすか。
でも遠慮なく頂きます。

といったかんじのノリで1時間くらい終了。
でも、センター員の皆さんは19時前に帰宅してしまい、1時間以上・・・独りぼっちでした。意気揚々とサポーターやりにきたのに、どうして僕はいつの間にか読書タイムに入ってるんだろう。悲しい。暇つぶし用にチャンドラーの本を持っていったのですが今度から舞城にしようと決心しました。スクールアタック・シンドロームと一緒に踊ろう。3時間あれば推理小説1-2冊は読める。(京極夏彦とか島田荘司作品のようなお相撲さん系文庫でなければ)

充実したメタ・アルバイト生活を送ることができそうです。


追記

ようやく勝った!!!!!
一昨日とか、昨日とか、ほんと打線が不甲斐なさ過ぎて泣きそうだったよ。
というより、打線が線になってなかった。点だった。まだ線にはなってないけど、スタメンの入れ替えでモールス信号あたりにはなったかな。これを機に気合で頑張って欲しい。
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