2009年12月

メリークリスマス!

ちょっと遅いか。でも、メリークリスマス!

今年は、ここ数年で珍しくあまり寂しくないクリスマス。
イブは、相方と一緒にお台場の方へ行ってきた。

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夕方くらいに到着。それほど寒くもなく、良い風と、雲。

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自由の女神がいらっしゃる。今の日本には自由はないけれど。

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浜辺(?)に座って夕日を見る。結構綺麗だった。
横にマックの袋(チキンタツタ、チキンナゲットなど)が
置いてあるのがおれららしい。

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あれっ、と、流星に見違うのは、飛行機雲。
長いものばかりじゃない。

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「シッタカ」って!
相方が気になるのはウーパールーパーのようで。
ずっと「ウーパールーパー」言ってました。

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レインボーなやつ。
夜景、凄く綺麗だったんだけど、ケータイで撮るとコレ。
デジカメ欲しい。

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ヴィーナスフォートのイルミネーション。
定刻になると、流星のようなやつ(3枚目の写真)が
動き始めて綺麗。流星雨。

ということで、楽しい一日だった。
思ったよりも混雑していなかったし。ただ、それほど、
クリスマスイブって感じではなかったような気がする。
(サンタは見たけど、ツリーとかあまり見なかった)

ま、楽しければ、それでいいのか。

ってことで、皆さんも、メリークリスマス!

ゲーム熱

FF13が発売中である。

実はFFは4から12まで(11はオンラインなので除く)発売当日に購入して一週間以内にクリアしてきたのだけれど、正直、もういいやと思って今回は買っていない。そもそもPS3本体がないのでどうしようもない。ハードとソフトを一緒に購入するお金も、意欲もない。自分のなかで歳をくったなーと感じるのはゲーム(RPG)を楽しめなくなってきたと感じる瞬間だ。

「レベル上げに時間を割くくらいなら本を読む時間にあてたい」、そんなふうに考えるようになってしまった自分が悲しい。自分はもともとやり込み型ではないので、シナリオを一通りさらっと体験できればいい、というスタンス。ただ、それでも小学生や中学生の頃にやったFFはそれなりにゲームのなかへの「没入感」を味わえたものだけれど。FF10以降はなんというか、ずっと「こちら側」にいる観客のようで、一旦熱が入っても、すぐにクールダウンしてしまう。「あちら側」へ行くには何かが必要な気がする。けれど、その何かを見つけるのにも時間がかかりそうで、それならば現状簡単に別世界に飛び立つことのできる読書に没頭したほうがいい、なんてことを考えている。

読書は、なんといっても、楽だ。一冊持って、好きな場所で、適当にペラペラめくって読むだけでいいんだから。ゲームの文章を読むときにはロープレにしろアドベンチャーにしろ「送り」が必要で、あの「何度もボタンを押す」というアクションが面倒くさい。かといってオートにすると遅すぎるし、被操作感や被管理感が溢れてくる。だから、仮にキンドルとかを購入しても、僕は絶対に使わないだろう(適応できないだろう)という確信がある。アクションが少ないほど良い、とは言わないまでも、アクションを起こす度に「あっち側」から「こっち側」に飛んでくる感覚はできる限り避けたいのだ。

その点、ゲームの方がもっと難しいかもしれない。たとえば、僕はゲームのなかに「やる」感覚を強く求めてない(だから、あまり自由度の高すぎるゲームをしようとは思わない)。かといって「観る」だけでは味気ない。「読む」ことだけを優先させようとすれば、ゲームではなく本へ手が伸びてしまう。こういう、「やる」、「観る」、「読む」の中間というのか、ミックスというのか、ここらの微妙なところにニーズがある連中は僕を含め結構多い。メーカー側はさぞかし面倒くさいことだろう。「やる」ゲーム作れば「そんなやり込み型のゲームは求めてない」って言われるし、「観る」「読む」ゲーム作れば「自由度が低い。映画だろ、これ」と言われる。

ただ、最近は読むに耐えないシナリオのゲームも多くなってきたように思う。そしたら、選択肢は「やる」か「観る」かだ。僕の知り合いを見回してみると、「やる」こと、「観る」こと、の両極のいずれかに割りきって位置し、これを追求し続ける人は一定以上の年齢になってもゲームに熱中し続けることができているような気がする。逆に、これら織物の間にニーズを求め始めた人はゲーム離れしたか、しつつある、気がする。

はたして僕自身はどうなることだろう。ゲーム熱は再燃するのだろうか。

ソクラテスとプラトン

火曜日のこと。

この日はゼミの忘年会だった。学校が終わってから高円寺の沖縄料理屋へ。高円寺、久々に来たけれど(たぶん今年初かな?)やっぱり良い町だな、と夜道を歩きながら思う。僕はどうやら「寺」のつく町と相性が良いみたいだ。「国分寺」、「吉祥寺」、そして「高円寺」。そういえば、名古屋時代に住んでいたところも「高蔵寺」という駅のすぐ近くだった。別にお寺が好きなわけじゃないんだけど、不思議だね。

閑話休題。

沖縄料理屋で、このブログに最近よく登場してくる「相方」について、あと、同棲しているのかどうかについて突っ込まれた。「聞いてほしいから、書くんだよ(におわすんだよ)」と、J教授。いやはや、弁解の余地はございません。でも、同棲はしてません。ホンとですよ?でも、なるほど、そういうふうに捉えられてしまうのかと。改めてブログを読んでみると、確かに、納得めん。前日にも「You君は同棲してるのか」が話題に挙がったそうだ。沖縄料理を食べている間にも「You君は最近血色が良くなってきている」とか散々言われました。それは、きっと、豚足のコラーゲン効果です。あぁ、うちのゼミの人たちは、皆、恋愛研究者(自称)になってしまえばいいのに!

その後、表現者・Kさんのライブに行ってきた。こちらが本題なのだ。

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ライブハウスって、いままでほとんど行ったことがなかったのだけれど、
ここは、中の雰囲気も含めて、本当に、心地良かった。

Kさんといえば、一番最初の勉強会(in 中野)に参加したとき、哲学の話の流れで音楽の歌詞の話になったことを思い出す。そのとき「詩に使うなら”プラトン”はいいけど”ソクラテス”はだめだね」と言われたことを憶えている。Kさんにとっての”プラトン”ってなんだろう、これを体感したかった。今回、Kさんの表現を体感していて、僕の身体と頭のなかに湧き上がってきたイメージは「孤独」と「自分(僕)」だ。後者はアイデンティティ、という言葉で置き換えて良いのかもしれないけれど、ただ、僕はアイデンティティというと自己同一性という言葉をイメージする。Kさんの表現する「自分」は、「同一性」というような収束したものではないような印象を抱いた。まとまったものではなく、外側に、少しずつ、延びていくような。影のような歩調で足跡をつけ続けるような。けれど、それは時々、内爆発を起こすのだ。いまだ「象牙の塔」が頭のなかで響いている。

そして、一番前で観ていたこともあって、タップ(ステップ?)やターンが印象的だった。あの、クルッと、は楽しく格好良い。あと、Kさんにとって後姿をどうやって表現するかって重要なことなんじゃないかと思う。後姿を皆に見せているとき、自分しか感じることのできない表情(オーディエンスと、そして自分自身の、見えない表情)も、たぶん。Kさんのプラトンが何なのかはわからなかったけれど、たぶんソクラテス(弁証法)よりもプラトン(イデア論)の方が孤独だ。どこかにあるかもしれないもの、けれど、どこにもないもの、そんなものを追究していくこと、ひとり表現していくことは孤独だ。それは鋭くも心地よい孤独なのだろうか。

ほしくん

近所の公園の一角に突如現れたオブジェ。
名前は「ほしくん」という、らしい。
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武蔵野美術大学の学生の作品らしいのだが。
どう見ても黄色い亀である。結構デカイ。何を意味するかは不明。

「ほしくん」の対角線上には「とりつかまえるもの」という、
これもまた似たようなオブジェが出現。

この存在感ある”二対”がいつの間にか消失した。
実は生きてたのだろうか。

星君、鳥、捕まえるもの。

燃えさかる青錆

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先日、専門学校の演習の授業で久しぶりに詩を書いた。
テーマは喜怒哀楽、人間の感情を表現する、ということだった。

与えられた時間の5分前くらいまで、ウーンと考え続けた。
どんな詩を書こうかと迷っていたというよりも、
どんな感情について表現しようかと考えていた。

結果的に選んだのは「嫉妬」。
たぶん、最も人間らしい感情。

燃えるような紅葉の「赤」、
赤い錆の「赤」、

どちらも赤。
憎らしいほど赤。

触ると青、なのに。


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