あっという間に8月だ。
仕事を始めてから、月日が経つのは早い早い。
昨日から三連休中。何をしようかなーとか考えてるうちに、
いつの間にか一日経ってしまった。このままじゃイカンね。
そうそう、ちょいとボーっとしながら近所を散歩していたら、
木の葉にくっついて風に揺らめいている蝉の抜け殻を発見。
数年前、ここで同じように蝉の抜け殻を見つけたことを思い
出して懐かしくなった。
実はブログにも書いてたりする。コレコレ。
しかし、相変わらずよくわからないこと書いてあるなー。
昔の自分。
「死の領土」か。これについては最近もよく考える。
たとえば、鳩だ。
鳩って、あんなにたくさんいる。ベンチ横に目を向けて
みると、真っ赤な目をした鳩が首を振ってたりする。
でも、最近ふと思ったんだけど、こいつらって一体どこで
死んでいるんだろうか。こんなにたくさんいるのに。
僕は首を振ったり、ポッポーとか言いながら歩き回る鳩
についてはそれなりに想像できるのだが、息を引き取る
寸前の鳩について想像することが難しい。
もし、仮に、人間でいうところの「寿命」のようなものを全う
した鳩がいるとすれば、彼らはどこで死のうとするのだろう。
事実、どこで死んでいるのだろう。
猫のように、独りきりで、山に篭って死ぬのだろうか。
人間のように、独りきりにはなりきれず、折り重なるようにして、
死ぬのだろうか。
それは鳩の意志のようなものか。
それとも意志のようなものとは別のものなのか。
なんてことを、徹底して追究していこうとは別に思わない。
たぶん、鳩には鳩の、人間には人間のやり方があり、でもって、
両者には両者なりの神秘があり、それは知ろうとしないほうが、
面白いと思えるからだ。まぁ、それ以前に理解が難しいってのも、
あるのだろうけれど。
ただ、一ついえるのは、僕という人間は、鳩がどこで死ぬか、
っていうことに想像力を自発的に働かせなくなっているということ。
で、それは鳩に対してだけじゃなく、自分の周りに存在している、
あらゆる生き物に対してなのだろう。昔っからそうだっただろうか。
生き物の生や死に対してこれほどまでに鈍感だっただろうか。
とかなんとか、考え、歩く。それにしても暑い夏だ。