2015年01月

名前が思い出せないもの

2015013020460000

コレを2つほど購入したいのだが、どうにも商品名が思い出せない。お金を受け取るときに使うものだから、コインなんとかじゃないか?と見立てをして、冊子のコイン関係欄を探してみたものの出てこない。周りの職員に現物を持ち回って「こやつ、名前なんだっけ?」と聞いてみたものの、「コインカウンター?」「コインディッシュとか?」などと、回答は判然としない。やはり皆コインなんだなぁ、と。でも、見つからない。しばらくして、ある職員が「カル・・・なんとかだったような」、と。カル。カルピス。カルシウム。カルテル。カルとは、一体。とりあえず、サンクス、と冊子インデックスのカ行を再度探してみると、あった、見つけた。カルトン。こいつの名前はカルトンだ。ご丁寧に括弧書きで「つり銭受け」と書いてある。カルトン、フランス語のような響きだなぁ、と調べてみると、やっぱりフランス語なんだね。こいつに意識があったら、話してみたい。お前って、見た目はわりと素朴なのに、ずいぶんオシャレな名前なんだなーと。そして、一度聞いてみたい。「カルトンと、つり銭受けって名前。どっちの方が好き?」、と。どっちの名前で読んでくれてもいいぜ。そのかわり、お前の名前も、なんだっていいだろう。なんていう、男前な返しをされそうだけれど。いくつもの名前たち。思い出せない名前たち。必要にとらわれず、ただ、ひっそりと呼吸をしていてくれますように。

今年も大雪がやってくる

2014020816430001

明日の天気予報は雪マーク。関東地方では平野部でも積雪が10センチくらいになる恐れがある、と。大雪です、大雪です、と、ニュースで大騒ぎしているときは、翌朝は残念な雨になることが多いような気がするのだが、今回はどうだろう。やはり思い出すのは昨年の大雪。あれは凄まじかった。2回目の大雪の日の夜、高速バスで関西方面に出る予定が入っていたため、仕事終了後、そのまま川崎のラ・チッタデッラ付近のバス停まで行ったのだが、バスが来ない。待てども待てども。吹雪の中、凍え死にそうになりながら45分くらい待機。さあ、ようやく出発・・・したはいいが、一晩走っても横浜市内から出られず。大雪の中、約10時間かけて、川崎から横浜駅まで移動したあの思い出はスパイスが効きすぎていてくしゃみが出てしまいそうなミステリーツアーでした。隣の席に座っている人が深夜3時くらいに突然奇声をあげはじめるわ、後ろの席に座っていた集団(男たち)は「おれたちはここで降りるぜ!」とか、まるで青春漫画かミステリー小説の1シーンのようなことを言いだす。実はそういうこと、やってみたかったんじゃないの?と思えるくらいの役者っぷりだった。斬新ではあったけれど、二度と体験したくない。雪の日は猫と一緒に家の中に引きこもって、布団のなかでゴロゴロしているのが一番だね。明日は容赦なく仕事だけれど。うーむ。

楽しくなくちゃ、DONBURIじゃない。

2015012519130000

鎌倉にある「bowls」なるカフェに行ってきた。名刺に「楽しくなくちゃ、DONBURIじゃない。」とか、カッコいいのか、カッコ悪いのか、よくわからないフレーズが書かれている「どんぶりカフェ」(新鮮な響き)なのだが、肝心のどんぶりものがメニューにほとんど載っていないではないか。シラス丼くらいしか見当たらない。店員さんに聞いてみると、丼物は昼メインで、夜は飲み屋(ダイニングバーとでも言うべきか)らしく、つまみ系のものがほとんどなのだそうだ。どうやらシラス料理がイチオシらしい。マグロののど肉ユッケなる珍しいメニューもあった。そして、どれもこれも結構美味しい。お酒も美味しい。ご当地ビールがいくつか並んでおり、そのうちの鎌倉ビール2種、江ノ島ビール、葉山ビールの4本をチョイスしてプハーッと一杯。いや、四杯。ちょっと気になるのが「食べ終わったら器の底にご注目!アタリが出たら”どんぶり勘定”いたします。」との文言。なんていう甘美な響きなのだろう。どんぶり勘定。これも店員さんに聞いてみると、昼だけのサービスで、当たりがでると80円引きになるか、シラス丼がひとつ無料サービスになるのだそうだ。このギャップやいかに。そういえば、元々、どんぶり勘定のどんぶりって、器のことではなく、職人さんの腹掛けポケットのことを意味していたらしい。このどんぶりに、お金を入れて無造作に出し入れ。なんていう汗臭そうなポケットマネーか。このカフェはそんな汗臭さからはほど遠いおしゃれカフェだったけれど・・・昼間はどうだろう。ファブリーズは必要か。はてさて。

猫はトイレでダイビング

2014112310190000

猫と一緒に生活している友人と「もし関東で大地震が起こったら・・・猫はどうやって一緒に避難させようか」、という話になった。「猫が部屋の中にいるときに地震が起こったら」という仮定である。まさか手の平の上とか、肩の上に乗せて移動するわけにもいかない。なんでも友人はトイレに猫避難用のグッズを準備しているとのこと(地震が起こったら、まず皆でトイレに避難すると考えているため)。これがフック付の袋で、袋上部の紐を引っ張ると、シュッと口元が締まる。いざというときには、この中に向かって猫2匹がダイビング。よし、オーケー、と友人。すぐにシュッと袋を締めて、サンタクロースのようにこれを抱えて避難場所まで移動するという計画らしい(なんというアナログさ)。「シュッ!と締めるんだ、シュッ!と」、と。シュッと、シュッと、と何度も言うのだが、問題はダイビングの方であろうと。猫にとってそれは自発的なダイビングなのだろうか。しかし、友人は猫ダイブの方についてはなぜか自信満々で「そっちの方はいける。うちの子たちなら」と豪語する。まさか、日々練習でもしているんじゃないだろうな。大地震の中、多くの人間たちがパニックを起こして右往左往。頭を抱えてしゃがみこむ中で、悠然とトイレまで歩いていき(場合によってはドアを開けて)、便座からフック付の袋に目がけてダイビングする猫たち。なんてシュールな光景なんだろう。つーか、飼い主よ、お前はそのとき大丈夫なのか、と、そんな思いがふと頭をよぎったが、何も言わずに黙っておきましたとさ。

「弱さ」の懐はどこにある

2015012411100000

松岡正剛『フラジャイル』を再読。「強さ」と「弱さ」の関係性、また、「弱さ」という言葉が含意するもの、もしくはその言説の関係力場。寂漠。薄倖。希薄。壊れやすいもの。うつろいやすさ。おぼつかなさ。なんてものについて、この本は扱っている。確かに、おれたちは、強さのようなものを求めているようで、同時に弱さのようなものに惹かれているように思う。弱さの方が、強さよりも、多面的で動的なように感じる。動的でいて、かつ静的、というのかな。あまり現実的ではないのだけれど(その非現実性に惹かれるのか)。弱さ、また、それに関連する言葉というのは自分の心であるとか身体の奥底にしまっていた記憶や感覚をアナロジカルに引っ張ってくることがよくある。たとえば、「トワイライト」なんて言葉は夕陽を想像させるし、「薄倖」と聞くと色白の美少女(もしくは美少年?)のイメージを喚起させる引き金になる。一方で、「自分は弱い」とか、「あの人は弱い人間だ」とか、そんなふうに思い始めると、上記のような、弱さが孕んでいる多面的で動的な関係力場はすぐに失われてしまう。途端に薄っぺらい紙になってしまう(そこには「自分は弱い!」「あいつは弱い!」と見せかけだけの力強い字で書かれている)。それは状況によってはどうしようもないと思う反面、つまらないことだな、と思う。無理やりなことだな、とも思う。やってしまうんだけれどね。でも、この弱さを、このうつろいを、たった一枚や二枚の紙に描こうと思ったところで、そいつは無理な話なんだから。苦しくなったとき。苦しいは確かに苦しいのだけれど、ここにどんなものが渦巻いているんだろう、どれくらいのものが詰まっているんだろう、と一拍置いて考えてみたり、他の誰かに聞いてみることはたぶん必要なことだ。昨日、散歩をしてるときに、船と錨をつなぐ鎖にカモメがズラーッと一列に並んでいた。キチンと整列(しているかのように見える)。いつ飛んでいくかわからない、こいつらを見て、ああ、弱さっていうのはこんなものなのかもしれないな、と何となくそう感じた。なんでそう感じたのかはよくわからないので、ちょっと考えてみます。

プロフィール

You

メッセージ

名前
メール
本文
記事検索
月別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ