2015年06月

あじわいアジサイ

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学生時代に「あなたを花にたとえると」ゲーム(ある意味、容赦ないゲーム)をしているときに、友人から「アジサイっぽい」と言われて、嬉しい気持ちと同じくらい寂しいと言っていた人がいた。アジサイは綺麗だけれど、どこか寂しげなかんじがする、と。私はきっと友人から寂しい人だと思われているんだ、と。アジサイからは寂しさを感じ取れるかもしれない。いろんなカタチがある。いろんな色がある。それと、何かに関係せずにはいられない、そんな雰囲気がある。それが寂しさを思わせるのかもしれない。ただし、その寂しさは思ったよりもカラフルだ。少なくとも人間にとっては。家と一緒にあると、暖かい気持ちになる。カタツムリが葉っぱに居座っていると、ちょっとだけ楽しい気持ちになる。普段歩きなれている道路脇に咲いているのを見かけると、おや、こんなところにもいらっしゃったのだねと不思議な気持ちになる。そして、雨の中のアジサイは素直さを思わせる。もし、それが寂しさなら、そんな寂しさであるのなら、皆、そういう色合いをみんな求めているような気がする。ホントかどうかは知らないけど、仕方なくも求め合っているような様子。こんなに満ち溢れているのに、なんで、寂しさと同義的に感じるのかね、と味わいながら、歩く、歩く。この時期の散歩は大好きだ。これでも独りきりな感じがするのだから、たまに笑ってしまう。

まだまだ、テレビが無い

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テレビが無くなって約2年半である。つまり部屋の中にない。時々、友達の家に遊びに行ったときに観せてもらったり、実家に帰ったときに観たり、まあ、それくらいである。テレビ番組表などを見かけると、ついつい「おー」とか懐かしさを感じるようになってきて、さすがに末期だな、と思うようになってきた。実はこの部屋、大衆娯楽といえば、本と、ダンベルと、コーヒーと、写真のラジオくらししかない。たまに友人などが遊びに来たときなどは「精一杯のおもてなしです」と、よくわからないラジオ番組を流し、好きな本を選んでいただき、温かいコーヒーを淹れる(もちろん、豆をミルで挽くところからやる)のだが、あまり評判はよろしくない。あらかじめ、こんな装いですと、告知はしておくのだが「ホントだったのか・・・」、と、驚かれることしばしばである(ホントだったのだよ)。一方、個人的には、この2年半、テレビが無いことで不都合なことはほとんどなく、しいていうならば、相当気分が沈んでいるときや、寂しいときに、本やラジオではどうにもならないときがあるってことくらい。本を読んでも物語が頭の中に入って来ない。気分を盛り上げようとラジオを聞くと、逆に気分が物静かに(波風立たない水面上でタバコ吸っているような。吸ったことないのに)なって、気持ち悪くなるときがある。深いところで蹲っているような。そんなときには誰かと直接話をしたいという衝動に襲われるか、一人でいなければならないときにはテレビの存在感を欲する。やはり、あの良くも悪くも「有無を言わせず引っ張られるようなかんじ」はテレビでないと、なかなかね。味わえないのかもね。なんてことを考えつつも、今のところテレビの設置予定はない。しばし保留。はたして、いつまで保留かは、神のみぞ知る。

運命マッチング

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今月もハマふれんどの冊子が届く。あまりに利用していないので、何か面白そうなものはないかな、と読んでみたところ「貸切ビール列車で行く熱海花火大会」と「Happy Hello Party!」なるものが気になった。貸切ビール列車云々については、まあ、読んで字のごとくである(ただし、肝心のビールは500ml缶2本のみらしい。ビールも貸切かと思ったのに)。問題はハッピー(略)の方である。説明文を読むと、「毎回ご好評をいただいている婚活交流パーティ」とある。そいつが装いを新たに、つまり進化し、ハッピーになったとのこと。対象は20歳から45歳までの男女。ビュッフェスタイルで食事を楽しみつつ、良きパートナーを見つけてしまおうという企画のようなのだが、お食事&休憩という表記の隣に「運命マッチングを行います」とある。運命・・・マッチング?なんだそれは、ソウルメイトのような類ではないよな。続いてのフリータイムの表記の隣には「フリータイムといっても、1回のトークタイムを6分程度で区切るスタイルです」という注記がある。全然、フリータイムじゃないじゃないか。いちいち、ツッコミどころが多いのが面白い。全体的に言い回しが独特のようなかんじがするのだけれど、婚活のチラシってのはこういうものなんだろうか。初対面で話すにしろ、カップルになるにしろ、どちらか一方が「これは運命」と言ってしまえば、その場が神妙な雰囲気に包まれるのは確実だろうが、「これは運命マッチング」と言い切れば、それなりの和みは得られるかもしれない。ただし、その時点で相手にとっての恋愛対象ではなくなる可能性もなきにしもあらず。なんという諸刃の剣である。

街灯を惹きつけるもの

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最近、駅前のドトールで一杯やりつつ(もちろんコーヒーです)、本を一冊読み、ぼーっと色々なことを考えつつ、30分くらい時間をかけて帰宅するのが好きだ。今日の一冊はオラフ・ステープルドンの『シリウス』。人間の知性と感情をもった犬、シリウス。彼は幼少期に「人間のように器用な作業が出来る手を持っていたなら」と願った。けれど、物事はそんなにシンプルだろうか。たとえば、この街灯とか、そこに生えている木に、人間の心が備わったとして、彼(あるいは彼女)は人間の気持ちとか、身体的特徴とか、その仕事っぷりに羨ましさのようなものを感じ、それを求めたりするのだろうか、とか考える。おっしゃ、2本足が生えたぞ、色んなことを考えることができるようになったぞ、これで自由だ!なんて話にはならないだろうし。それこそ人間の勝手な投射で、そもそものところ、彼らにとっての欲求がどういうふうに芽生えてくるんだろうって話だ。独りきりだと、埒があかないかもしれないな。そのとき隣にいるやつからの言葉が大きいかもしれない。結論が出ずに堂々巡りしてるときに、隣の看板から「おい、知ってるか。さっきの塗装屋は結構良い仕事するんだぜ」(看板語。そういうものがあるとしたらば)、なんて言われると、街灯もちょっとは人間のことを気にし始める、かもね。すると、人間も気にする。シリウスと一緒に育った人間、プラクシーは徐々に「ひとりっきりで歩いている猫」に近づいていったけれど、ずっと、その街灯のそばで生活してきた人間はどんなものに近づいていくんだろう。

ビワ実る

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川沿いのビワ、枝もたわわに実る。小学2年生くらいのとき、スイミングスクールに通う途中でビワの木を発見し、そのとき一緒にいた幼馴染と際どいところになっていたビワ採ろうと熱中したことがある(ビワ採りの結果はお察しください)。この結果、見事バスを乗り過ごした。しかしながら、帰り道、やってやったぜ的な笑顔で2人。「まあ、ビワならしょうがないよね」、しょうがない、しょうがない、と2人。その勢いのままに、親に「ビワだからさ、しょうがないよね?」わかるよね、この気持ち、ってな体で話をしたらスゲー怒られた記憶がある。懐かしい思い出。

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