2015年08月

帯状疱疹にかかる

DSC00671
久々のブログ更新。実は先週末くらいに帯状疱疹を発症したため、この1週間は自主的にブログと読書を控えていた。背中とか、腰とか、目につかない場所に発疹が出てくれればまだ良かったのだが、発症部位は顔面三叉神経第一枝。帯状疱疹が発症する数ある身体部位の中でも「最悪」と名高い場所のようで、目、耳、脳などに後遺症が残る可能性も高いとか何とか。「帯状疱疹 顔」でネット検索してみても、概ね悲観的な意見しか書かれておらず、眼科の医師からも、初診の際に「長い付き合いになりそうですね」などと物騒なことを真顔で言われ、さあ、これはどうしたものかと。ただ、焦ってどうにかしようと思っても仕方のないことなので、まあ、人は人、おれはおれ、きっとなんとかなるんじゃね?くらいの楽な気持ちで、抗ウイルス薬をしっかり飲み、とにかく食べて早めに寝ることを心掛けて静養していたら、何だかすっかり回復傾向。初日は激戦を終えたボクサーのようだった顔面も(どうやって買い出しに行くか本気で悩んだ)今はほとんど以前と変わらないくらいまでに治った。自分の身体の中にある免疫機能に感謝感謝である。とはいえ、まだ油断はできない。時々、こめかみのあたりがピリッとする痛みはまだ残っているし、今のうちに完全に治しておかないと、後で神経痛が後遺症として残ってしまうこともあるらしいので、しばらくは無理せずにのんびりと生活したいと思っている。帯状疱疹になってみて、感じたこと、考えたことが色々あったので、その点については追々とブログに書いていくかも。

※写真は職場にしていこうか悩みに悩んだ末、結局、使わずに終わった眼帯セットです。眼帯の上から眼鏡をかけるっていうのは、ちょっとなぁ。

目の奥が痛い

疲れ目なのか、ここ数日間くらいの大気不安定の影響からか、左目の奥の方が重く痛い。ついでに頭も痛い。ま、まさか、これが世間で言われてるところの偏頭痛というものなのか。滅多にない体験なので、これが!偏頭痛!とか、ちょっと変なテンションになっている。冗談はさておき、目の方はなんとかしないと。このままでは本も集中して読むことができない。目薬をさしても治らなかったので、さて、どうしたものか。場合によっては眼科で診てもらうのも手だが、あと数日間くらいは目薬とマッサージで様子を見てみることにする。

お盆休みの最終日

DSC00666
タイトル通り、最終日。実家に戻ってきてから、高校のクラスメイトと同窓会をやったり、クワガタ採りをしたり、カレーを食べたり、なかなか充実した休みだった。締めはお墓参り。というか、これがないと、何のためのお盆休みなのかという話である。うちのお墓は実家から徒歩10分程度のところにある。いつも気分のままに歩いて行ってしまうので、お盆だから、法事だから、という理由はなくとも、あ、ちょっとお墓参りに行ってこようという気持ちが湧いてきたら素直に参ることにしている(大抵は実家に帰ってきた日と、出発する日に行く)。それにしても、お墓の前で、今は亡きおじいちゃんおばあちゃんを心に思い浮かべながら手を合わせるときには、一体何を祈ったら良いものかと、いつも思う。「家族皆が幸せでいられるよう見守っていてください」などと祈ると「神様じゃないんだからねぇ」と言われそうだし、「安らかにお眠りください」などと祈ると「家族なんだからねぇ。そんな仰々しいものはやめてほしいよ。勝手に寝るよ」とか、言われそうである。すると、無心か、と思うのだが、そもそも何にも考えずに祈るなんて土台無理な話で、もしできたとしても「少しは思い出してほしいよねぇ」と、言われそうな気はする。と、まあ、きっとこんなことを考えてる時点で、2人の人となりを思い描いているわけで。それは思い出しているということで。帰り道、今回はこんなかんじで勘弁、と呟くと、2人の優しげな笑顔がじわじわと見えてくるようで、懐かしいような、寂しいような、少し幸せな気持ちになるのである。

右も左もわからないレシート地図

DSC_0098
お盆休みと言えばクワガタ採りだろうと勢い勇んで山の中に入ったものの、道に迷う。途方に暮れつつぶらぶらしていると、幸いなことに農作業中のおじいさんおばあさんを発見。ここに行きたいんです、と詳細を話す。すると、おじいさん、隣のおばあさんに向かって「おい、ペンを貸せ」と。おれに任せておけと言わんばかりに、自信満々な表情でレシートの裏に書いてくれた地図がこれです。わからない。かろうじて橋っぽい絵が書いてあるのと、「銀行」とか「熱」のような文字が書いてあるのはわかるのですが、肝心の今いる場所がどこなのか、行先がどっちになるのかがさっぱりわからない。ただ、まさか厚意で書いていただいたのに、わかりませんの一言で返してしまうのもあれなので、しばらく、ううむと悩みつつ考えていると、隣で妙にそわそわしていたおばあさんが「これではわかりませんよ、お父さん」との助け舟。そう、そうなんです、おばあさん。しかし、おじいさん、「おい、なにを言ってる。わかるだろうが、なあ」と少しお怒り気味。すみません、わかりません。そして始まる夫婦喧嘩(っぽいもの)。何か自分のせいでこうなってしまったかのようで、やりきれず、「まあまあ・・・」と2人に向かっておれ。夏空の下、一体なんなのか、この状況。結局、道はさっぱわからず、試行錯誤しつつ帰途についたが、おじいさんおばあさんからは時間を取らせたお詫びにとトマトとナスをいくつかもらった。何だかよくわからない美味しい野菜な一日となりました。

男性用パジャマ胸ポケット論

DSC_0088
堀江敏幸『正弦曲線』という本のなかに、「昼パジャマ」というタイトルの文章がある。男性用パジャマの上着についている胸ポケットが、一体なんのために存在しているのかということについて、著者独特のユーモアをもってして真面目に考えているエッセイだ。読んでいて、確かに、と思う。現在、おれは寝間着はTシャツと短パン派なのだが、子どもの頃に着ていたパジャマには確か胸ポケットがついていた。しかし、使った記憶はまるでない。必要か不必要かについて考えたことすらなかったように思う。堀江さん曰く、この男性用パジャマの胸ポケットについて疑問を抱き、考察を加えている物書きは数多く存在しており、一般論としても、タバコを持っていくためだとか、コンドームを隠し持っておくためだとか、過去から現在にわたって色んな男性用パジャマ胸ポケット論が出ているとのこと。この話を受けて、自分でも少し調べてみたところ、多少しっくりくる意見があった。「椅子が4本足であることと似たようなもの」という見解である。つまり、椅子は3本脚でも安定性を保てないことはない。同様に胸ポケットも、あっても、なくても、パジャマはパジャマとして機能する。だが、それならば、あっても良い、無い方が良いというものでもない。無くすこともない、あっても別に困らない。要はそれなりに許容された過剰である。ちょっとした安心感につながるような、過剰な部分。あら、なぜか手の中にある1円玉やら、輪ゴムやら、怪しい名刺やら。おや、こんなところに胸ポケットがあるじゃない。このような素敵な出会い。胸ポケットがないのであれば、皆、おもむろにズボンのポケットに突っ込む。そして、洗濯のときに、世の奥様方に「まったく、子どものおもちゃ箱じゃないんだから」などと怒られ、「ああ、今度から気をつけるよ」などと気のない返事をするのである(たぶん)。
プロフィール

You

メッセージ

名前
メール
本文
記事検索
月別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ