2018年06月

友だち幻想が売れている

学生の頃に読んだ、菅野仁『友だち幻想』という本が売れている。もはや10年くらい前に発刊された本なので、なぜ今になって・・・と、本屋で山積みになっていた同書の帯をよく見てみると、「又吉オススメ」とある。なるほど、メディアで取り上げられたのか、何なのか。この本のなかで「ルール関係」と「フィーリング共有関係」(だったか?)という考え方がある。簡単に言ってしまうと、ある組織内で人間関係を築いていくためには、システムや役割分担として人と付き合う「ルール関係」と、気が合う、気持ちが通じ合う、というように感情面や情緒面のつながりから人と付き合う「フィーリング共有関係」があり、両者を混同することなく、それぞれを別ものと認識し、上手く使い分けることが良いのだという話だったか。つまり、「みんな仲良く!」とか「わかり合ってるよね、わたしたち!」なんていう、そんな言説で一括りにしたような友だち関係は一種の幻想であると。当時は「まあ、そうだよなー」なんて、若干他人事のように思いながら読んだ記憶はある。けれど、このSNSでつながりたくてしょうがない社会にあって、上記のような関係性の気づき方、いくつかの方法のごちゃまぜ感はひどいものがある。否定はもちろんのこと、率直な意見交換のための批判的な関係も許さず、奇妙なまでに肯定し合い、認め合う。まるでルール関係の基盤に、“みんな仲良く”思想が前提的に広がっているような錯覚。お互いに上手くやっていけるのであれば、それはそれで良いのだけれど、互いに何も納得していないのに、なんとなく、どうしようもなく、関係性を続けているのであれば、それは気持ちの悪い停滞でしかなく。そういう意味では、この本が売れる(求められる)理由が何となくわかる気はする。一方、自分としては、そもそも、この「フィーリング」であるとか「価値観」というものを、友達や恋人と付き合ったり、離れたりする第一義的な要因として挙げることもよくわからない。何となく気が合う、何となく価値観が似ているように思う、とかならわかるのだけれど、「フィーリングが合うから一緒にいるんです」「価値観が合わないとわかったから、別れます」とか、そこまではっきり言えるのはどうしてなんだろうかと、たびたび思う。こんなにあやふやで、かたちが止まっていおらず、根拠にしにくいものもそうないはずなのに。2年ほど付き合ってみたけれど、耳のかたちがどうにも気に入らなくて、受け入れられないので、別れます。とかの方が、理由としてはわかりやすい。というか、突き詰めてみれば本当はそんなものだったりするのかも。本音を出したら揉めるとは思うけれど。

青いあじさい滲ませる

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仕事を早目に切り上げて、北鎌倉の明月院へ。なるべく混雑を避けようと16時過ぎ頃に行ってみたのだが、まあ混んでること。平日のこの時間でこれだけの人の入りならば、土日のピーク時間にはどうなってしまうのか。考えただけで恐ろしい。そこかしこから中国語や英語などの外国語が聞こえたので、外国からの観光客も多いのかもしれない。「インスタ効果ってすごいね!」とか言いながら、高校生か大学生くらいの若者たちがそこら中でカメラ構えているわけで、歩いていると紫陽花を見ているのか、写真撮影会を見ているのか、わからなくなってくる。なんだか気疲れして、横道に逸れたところでひっそり咲いていた紫陽花を見つけてホッとしたり。自分にとっては、紫陽花のこういう、いるかいないかわからず、けれどやっぱりいた(いてくれた)、というような、曖昧な存在感が好ましく。「いるぞ、ここにいるぞ」と、存在感を強調されているような明月院ブルーたちには若干の違和感をもつわけだけれども。そんな印象もカメラを構えている人間らと絡み合っているから発されているのだろうなと。たとえば、人が誰もいなくなった真夜中に訪れることができれば、全く違う顔を見ることができるんだろうなとは思う。夜ともなれば、紫陽花以外に色んな生き物とか、生きてないものとか、出てきそうだけれど。この時間でも、どこからともなくリスの鳴き声が聴こえてきたし。

※せっかくなので、何枚か。

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午前2時のあじさい

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昨夜は友人たちと新宿で飲み。久しぶりに終電を逃す。あー、あー、結構早目にチェックしていたんだけれども、23時半発でも帰れないってどういうことよ。何度か路線情報を検索し直して見て、目を凝らして見つめてみるも結果は変わらない。とりあえず行けるところまで行ってみようと山の手線に乗り込んで品川を目指して進んでみたは良いものの、「なんだ間に合いそうじゃん」と思った矢先、なぜか大崎で降ろされるという、この不条理(運転ダイヤ的には条理)。悶々とした気分のまま、大崎駅のホームで次発を待つ。横浜方面、特に京急沿線にお住みの方々、わかってくれますか、この気持ち。品川駅に到着するも、最寄り駅までの電車はすでに無くなっていたため、京浜東北線で行けるところまで行き、後は歩くことにした。ネットカフェを利用する手も考えたが、あれは他の客のイビキやら漫画の誘惑やらで結局眠れず、せっかくの翌日の休日を睡眠時間に充てることになることが見えすぎるくらい見えている。かといって、ビジネスホテルに泊まるのは負けた気がするので嫌だ。まあ、すでに別角度から負けているのだが。「行けるところまで行ってみたぜ駅」に到着したのが深夜1時過ぎ頃。まだ雨が降ってなかったことが不幸中の幸い。早々ない機会だし、一人、ナイトウォーキングを楽しんでみるかとふらふらしながら(たぶん)自宅へ。おそらく1時間程度だろうか。いつもとは違った風景が多く、夜のあじさいなんかもそれなりに綺麗で、意外と楽しめるものだなと思う。新聞配達のおっちゃんたちは、こんな時間からフルパワーで準備を始めていた。原付のカゴのなかにクジャクの羽根のように広がって、大量に差し込まれた新聞たち。ご苦労さまです。歩いている間に、この前読んだ澁澤龍彦『快楽主義の哲学』のある一節を思い出す。エピクロス哲学とストア哲学は、その内容が異なっているようで、「自然と一致して、調和して、平静な心の状態のままに生きることをモットーにしている」点で一致している。異なっているのは、その一致、調和の仕方が、後者では緊張状態であり、前者では緊張緩和状態であることだ、と。酔っ払い気味に、半ばこんなことを考えつつ、夜中のあじさいなんかと向き合っている自分の状態は、果たしてどっちかねぇ、などと思いつつ歩く。しかし、まずいことに、こんな時間にお腹が鳴ってしまったので、セブンに立ち寄ることを瞬時に決断してしまった自分は、やはりエピクロス傾向ありか。

波止場と工場

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仕事に追われていると、ものを考えたり、感じたりすることから離れていっている感じがあり、かといって完全に離れられもせず、こうした衝動を他の人はどのように消化しているのだろう?と思いつつ、こんな2冊の本を読む。いずれも他の著作(思想書)は読んだことがあるのだけれど、「日記」を読むのは今回が初めてだった。ホッファーの日記は仕事(沖仲士)の内容はさらりと触れられているだけであり、その他の内容は、知識人と大衆、海外の社会的状況、気になった本のこと、家族のことに関する思索に占められている。逆にヴェイユの日記は、製造するピンの数から、作業工程・時間、機械のペダルの踏み方等、あらゆる数や方法を逃すまいとする視点が見て取れる。ヴェイユは工場で働く人間の疎外、隷属の状況、特にその思考の停滞状況について「釘づけられた思考の恒久的苦痛」「不幸の第一の結果は思考が逃亡を欲しているということである」という言葉によって表現している。ホッファーについては、その思索から肉体労働は切ろうと思っても切り離せないようである。彼の日常的な生には労働が必要で、他にも1日2回の食事、本を読むこと、少しでも良いから文章をつづること、などが挙げられていた(葉巻は?コーヒーは?とか、思ったけれど。ただ、日記を読む限りではコーヒーよりも紅茶を好んで飲んでいたような気がする)。2人の境遇は異なり、それぞれが波止場や工場で働くことになったモチベーション、また、その期間も全く違うけれど、1つ、思考を働かせながら生きるために必要なこととして同じようなことを言っている。それは創造力であるとか、自己啓発力とか、そういうものではなく、「注意深さ」。自分たちがどのような状況に置かれているか、自分にどのような変化(抑圧状況)がもたらされているか、これを相関している文化・社会的状況を見据えつつ、注意深く感じとり、考え、知ろうとすること。両者ともに、この重要性を日記のなかで説いている。ヴェイユは、この注意力の重要性をあわせて、「反省力の破壊」という言葉を使用している。自分が不勉強であり、また訳のせいかもしれないが、この意味が少しわからなかった。反省力の破壊とはなんぞや。

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