2020年04月

ゴア・ベージャ

昨夜、変な夢を見た。
ある場面で読んでいた書類のなかに「ゴア・ベージャになる」という、夢のなかでありがちな謎の文章を発見する。
ゴア・ベージャとはなんぞや?と、ぼんやりと記憶を残しつつ起床。何やら示唆的な言葉だったのでメモって調べてみると、どうやらポルトガルに「ベージャ(Beja)」という都市があるらしい。また、同じくポルトガル語に「~にキスする(bejia)」という動詞があるとか。西インドの「ゴア(Goa)」がかつてポルトガル領だったことを考えると、どうにもポルトガルに由来する何かが自分の脳のなかの遺伝子だか何だかを揺れ動かしたとしか思えない。気になるので更に調べてみると、過去にポルトガルにはアヴィス=ベージャ家という王家があり、特に15世紀から16世紀にかけて“幸運王”として君臨したマヌエル1世による統治時代に海外交易を発展させてゴアを占領している。
そうか、つまりだ。たとえば、おれはマヌエル1世か、その当時の国民かの生まれ変わりで、当時のキーワードであったゴアとベージャを深層の記憶のなかで結びつけたのだ!そして幸運王におれはなる!ってか。そこいらまで考えて飽きたので、空想は放置。そもそも、ポルトガルの歴史とか言語とかよくわからんし。
意訳やイメージも含めて考えればゴア・ベージャは「ベージュ色の布きれ」だったり、「血塗られたキスをする人」だったりするかもしれないしね。後者なんて恐ろしや。逆に某ゲームの「ゴルベーザ」とか関係してるんだったら実にシンプルなんだけど。。。
ああ、ぼうっとしてくると、こういうわけのわからないことを考えてしまうので、まずはコーヒーを飲もう。実はコーヒーに合う美味しいスコーンを貰ったのです、今日。幸運王よりも、まずはスプーンの上に乗った小さな幸せから、と。

外出自粛で丸まるを知る

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ついに静岡県も緊急事態宣言の対象となった。
特にやることが変わるわけではないけれど、外出は出来る限り控えるようにしている。友人知人の皆さま方は知っての通り、当方、いわゆる引きこもり生活というやつは得意中の得意で、一日中部屋のなかに籠って過ごすことは何ら苦にはならないのだが、世間がZoom飲み会だとか、自宅でキャンプ配信だとか、何やら新しい試みをし始めているなどというニュースを観るたびに少し心がザワつく日々である。
魅力を感じると同時に、こんな娯楽の方からこちらへ舞い込んでくるような環境下にあっても、人は延々とそういったものを求め続けるのかとも思う。自分も含め。どうせなら徹底的に独りになりきるとか、瞑想にふけるとか、禅的なものを追求するとか、この機会にあえてそのような方向性に進んでみるのも悪くないのかもしれない。というか、きっと、そんな人もいるはず。
ところで現在、アメリカではペットレンタルがブームらしく、相談が殺到しているそうだ。イヌやネコたちの態度は緊急事態であろうとなかろうと当たり前のようにイヌやネコで、触れ合うことから生まれる“癒しらしきもの”は日常感覚を取り戻すのに一役買っているのだろう。もちろん、彼らにとっては誰に言われるまでもなく、いつも通りの自然な態度や動作なのだろうけれど。「おれは丸まれる場所にならいつでも丸まる!」と声が聞こえてきそうな、この見事な丸まり方といったら。キャットタワーの天辺なのだよ、ここは。限られたスペースとタイミングで、出来ることをやる。負けちゃいらんねぇな、と思わせられるわけである。まあ、言い換えれば、ずーっと寝てるだけなんだけどね。

緊急事態宣言後の外来受診

電車は少し恐いので、父の車で行ってきた(ありがとう、父)。
緊急事態宣言が出てから約一週間。まさに非常事態ということで、道路も空きまくってるかなぁと思いきや、高速を下りてからは懐かしさ溢れる日常の光景。って、何ら変わってないじゃないか。大丈夫か横浜。病院の玄関口で頭にレーザーらしきもの?を当ててピッ!とやる検温をすることになってたのが、一番大きな変化だった。今回は36度3分でセーフだったのだけれど、これで37度超えてたり、ましてや37度5分以上あったりなんかすると別のスペースに一旦隔離されたりするのだろうか・・・。
病院内に入ると外来待ちの人たちはやはりというべきか、やや減っていて、今までと比べると3割減といった印象か。当然ながら病棟での面会も禁止。お世話になった看護師さんたちへの挨拶も次回以降に持越しとなった。まあ、もうちょっと髪が伸びて、風貌が変わって誰だかわからないかんじになってきたら、こっそりと顔を出すことにしよう~。

これまでの外来受診のとき、待ち時間が長くなりそうなときには外を散歩したりして時間を潰していたのだけれど。今は一旦病院外に出ると、再度入るときに例の頭にピッ!をやらないといけなさそうな気配があったので、今回は大人しく待合室のイスに座ってのんびりすることにした。
ボーっとしていると、入院中の方だろうか、パジャマ姿のまま車いすに乗り、診察室前で(たぶん)迎えを待っている人がいる。
一年前、自分もほぼ同じような状況で看護助手さんのお迎え待ちをしていた。あのときは同じボーっとでも、薬の副作用による熱でボーっとしていて、しかも隣にいる点滴棒にくっついた輸液ポンプ(3つ)が今にもピーピーと音を立てて周りの視線を集めるのではないか、何か色々つながっているし髪も抜けてきたし重病人だと思われるのではないか、トイレはどうすればいいのか、などと気が気ではなく。ボーっとした感と緊張感との中間地点を心理的にうろうろして気を揉んでいたせいか、やたらと疲れた。それだけに、迎えの人が来てくれたときの安心感といったらもう言葉では表現できないくらいのものだったことを思い出す。
こんなウィルス禍と呼ばれる状況下にあったとしても、マスクで眼鏡が曇ったとしても、平熱のまま、何やら空想したり、想像力を巡らせながら一人でボーっとできることは幸せなことだ。

あ、ちなみに今回の外来受診の結果はほぼ問題なし。飲み薬は継続で、次回受診は約1ヶ月後となった。
まだしばらくは難しいかなぁと予感を抱くが、次回受診までには感染がある程度収束に向かうことや、今も最前線で頑張って闘ってくれている医師や看護師さんたちの無事を願いつつ、病院を後にした。

嗅覚脱失と都こんぶ狂い

新型コロナウィルス感染に伴う初期症状として、「嗅覚障害」や「味覚障害」が度々挙げられている。新型コロナではないのだが、自分の病気に関わる治療や移植をした直後、やはり同様の状態が見られたことを思い出す。そのときはどんなものを食べてもわずかな塩味や酸味しか感じられず(甘味は一切感じない)、しょうゆを直に舐めても少しのしょっぱさしか感じられず、なぜこんなことになるんだろうと不思議に思った。ただ、たとえ風味は感じられなくてもお腹は減るわけで・・・ほんのわずかな塩気を頼りに「おれは腹が減っている!おれはこれを食べたい!」と半ば自己暗示をかけながら、元から薄味の病院食を頬張っていた。
以前、感覚論について勉強していたときに、「嗅覚脱失」にかかる本を読んでいたことがある。嗅覚は単純に「匂い」ということのみならず、人間の感情、記憶、あるいは存在感覚に大きく寄与している。それを失ったとき、また、失ったことを自覚したときの人間の喪失感や失望感は大変なもので、嗅覚がなくなったことそれ自体に加えて、それに続く二次的な影響の方が心配されるという。たとえば、ある人はケーキやチョコレートをひたすらに食べ続ける。また、他のある人はゴミ収集場所にある生ごみの匂いを求め続ける。そうすることによって、自らを襲った存在感覚のズレや日常生活に入り込んだ異質性の調整をしようと試みる。逆にいえば、おれたちを取り巻く当たり前のような日常的な存在感覚はそんな嗅覚的要素や味覚的要素に支えられ、依存せざるをえない、ということでもありそうなのだが。それはケーキ、チョコレート、生ごみ、だったり。
治療中、おれにとって、その一つの要素は「都こんぶ」だった。他の食べ物に比べて、都こんぶは少し強めに酸っぱさを感じられるというのがその理由で、売店で多めに買っては常にストックしていた。酸っぱさを感じたいから、というよりは、風味を感じながら食べることができているという感覚を求めていたような気がする。匂って味わえて食べているという感覚は自明すぎて日常では自覚的に問うことはそうそうないけれど、異常事態に陥った場合には迷宮入りしてでも問いを立てては求めることを繰り返すらしい。ここ何年、というか、何十年も買うことなく、視界に入れることすらなかった都こんぶが、今、わずかな幸せを感じるためのエッセンスになるだなんて。何がどうなるかなんて、わからない。
ちなみに、これも本に書いてあって、いつかブログの記事でも少し触れた気がするのだけど、おれたちが「味」として認識しているものは、本当は「匂い」だったりすることもある。たとえば、チョコレートには、みんなが「チョコレート味」として考えるような味は存在しておらず、砂糖の甘味のみ。そして、“あの”チョコレート味は匂い、つまり嗅覚に依存しているのだそうな。風味、として感じられるものの多くはそんなグレーゾーンにあって、今感じられたものが味覚によるものか、嗅覚によるものか、ということは、案外感覚にというよりは、言語や文脈に依存しているのかもしれない。そら恐ろしく、そのような混乱のなかでは、都こんぶ狂いにもなるよなーと。十全な感覚を取り戻した(かもしれない)今だからこそ、そんなふうに思ったりする。

ネットカフェ難民の難民

今回の7都府県における緊急事態宣言にまつわる報道を通して、「ネットカフェ難民」というワードを久しぶりに聞いた気がする。東京都が休業要請する会社・施設等のなかにネットカフェが含まれているが、その場合、ネットカフェに定住している人たちへの対応はどうするか、という話である。
メディアからの情報によれば、現在、都内でネットカフェ難民とされる人たちは約4000人いるらしい。が、そもそも、この4000人は「住居喪失不安定就労者」(住居喪失者のうち、雇用形態が派遣労働者・契約社員・パート・アルバイトの者)に絞った数字のようなので、実質的にネットカフェを“住居のように”利用している人たちは更に多いと思われる。東京都はネットカフェが休業になった場合のネットカフェ難民のための一時的な住居として、宿泊施設のうち500床程度を確保しているというが、そもそも500だけで足りるのだろうか。また、ネットカフェは定住者からしてみれば、住居としてのみならず、娯楽施設、飲食店としての意味合いも持つだろうし、住民一人ひとりがネットカフェに”住まなければならない”ような事情を抱えているケースも多いだろうから、単に「宿泊場所を別に用意しましたので、どうぞ」と言われても、すんなり「はい、行きます」とはいかないだろう。
というか、未だにネットカフェは通常営業されているのだろうか。おれも終電逃がしのナイトパックで度々お世話になった身だが、店によっては仕切りもあってないようなものだし、下手をするとライブハウスやカラオケなどよりも、よっぽど三蜜空間を作りやすい場所であるように思うのだが・・・。すでに潜在的な感染者が出ている可能性が想定されるのであれば、ことは慎重に進めなければいけないように思う。

とかなんとか、たまに小難しいことを考えたりしてるが、実家周辺では今のところ平和そのもの。入園式を終えたと見られる何組もの園児とその家族が桜の木の前で笑顔で写真撮影などして、マスクなしではしゃいでたりして、おいおい大丈夫かい、などと内心思いつつ。明日は我が身、じゃないけれど、来るときは来るんだろうなぁ、と。現状のところ感染リスクが高い身でもあるため、考えられる限り万全の対策をして、一日一日を過ごしている。さすがに退院してから間もなく入院カムバックはご勘弁。
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